学園祭週間

講義の準備や〆切などの自転車操業をなんとかここまで引き延ばし、倒れ込むように学園祭週間に突入。この一週間の休みは本当に貴重だ。

18日、会議@日吉。
19日、打ち合わせ@某所。
20日、日吉2コマ、青学1コマ。
21日、とある仕事でZAKさんのレコーディング現場に立ち会う。フィッシュマンズはもちろん、バッファロー・ドーターの『シャイキック』(このアルバムは本当に何度聴いたかわからない)や浜田真理子の新譜も愛聴しているので、この機会にいろいろとお話を伺う。部屋の隅々に備長炭が置かれたスタジオには穏やかな空気が流れている。「とにかく窮屈な音が嫌い」というZAKさんの言葉が心に残る。
22日、Sさんと打ち合わせ@新宿。当初の予定とはだいぶかけ離れてきたが、俄然やる気が出てくる。
23日、『父親たちの星条旗』@新宿ミラノ座。イーストウッドは真面目だなあ。でもこの作品、「映画ははたして戦争を表象できるのか?」という問いをめぐって堂々巡りに陥っている気がする。(以下ネタバレ)

アメリカ兵が硫黄島に国旗を立てる例の有名な写真。実はそれは二本目の旗に立て替えるところを写したものだったのだが、写真が新聞の一面を飾ってしまったために、兵士が本国に呼び戻されて国威発揚のために利用されるという物語。

「戦争にヒーローはいない」というメッセージを忠実に守るかのように、この作品の役者は誰一人として目立つことはない。映画スターとしての存在感が希薄なのだ。しかしそれは同時に、「果たしてスターの存在なくしてハリウッド映画は成り立つのか」というもう一つの疑問を否応なく喚起する。

こうした自己言及的な構造は物語そのものにもみられる。呼び戻された兵士が全米をまわる際、あるスタジアムにセットが組まれている。硫黄島を模したそのセットに兵士が旗を立て、それを観る国民が歓喜に沸くという演出だ。そこでひとりの兵士が言う。「こんなハリボテに昇ってられるか。」だが映画とは、そもそもハリボテそのものではないのか。戦争映画を撮るということは、まさに「ハリボテに昇る」ことそのものではないのか。ここで問われているのは戦争の表象(不)可能性という根源的な問題である。そしてその問いに答えを出すかのように、イーストウッドは最も残虐的なシーン─日本兵によって無惨な殺され方をした(と思われる)アメリカ兵の死体─を結局最後まで映すことはない。肝心の場面を観客の想像力にゆだねているのだ。(でもここ、『硫黄島からの手紙』に繋がってるのかも)

その結果、『父親たちの星条旗』において印象に残るのは、登場人物の「悪意」が思わず吐露されるシーンである。ヒーロー気取りの兵士が、例のハリボテのセットに昇りながら笑みを浮かべる場面。あるいは、その兵士のフィアンセがパーティーで「自分も有名人の仲間入りをしたい」とばかりにしゃしゃり出る場面。あるいは、ヒーローに仕立て上げられることに耐えられなくなったネイティブ・アメリカンの兵士に対して、「このインディアンめ!」と吐き捨てるように差別的な感情を露にする上官。観るものを不快な気持ちにさせるこれらのシーン、それこそが戦争そのものであるといわんばかりにここでは人間の悪意が印象的に描かれている。

イーストウッドのこうした態度は、たしかに批評的、倫理的には正しいのかもしれない。だがそれは同時に、映画の本質、すなわちスペクタクルの放棄を意味しないだろうか?制作に名を連ねるスピルバーグが同じように第二次世界大戦を主題にした『プライベート・ライアン』と比較すれば一目瞭然だろう。ノルマンディー上陸を描いたあの冒頭のシーンにおいて、スピルバーグはすべてを可視化させている。爆発により二つにちぎれてしまった兵士の肉体。溢れ出る内蔵。狙撃されて窪んでしまった顔。スプラッター映画の伝統を踏まえるかのように、スピルバーグはすべてを見せようとする。映画はスペクタクルであってスペクタクル以外の何ものでもない、という確信がスピルバーグの映画には満ち満ちている。

スピルバーグの『シンドラーのリスト』は、かつて同じ時期に公開された『ショアー』と比べられ、その安易な「表象」が批判された。しかし、戦争映画の批評性に徹底的にこだわるイーストウッドと、スペクタクルとしての映画に揺るぎない信念を抱きつづけるスピルバーグと、いったいどちらが優れた映画監督だと言えるのだろうか。

24日、実家へ。
25日、矢野顕子『さとがえるコンサート』@NHKホール。id:chibamaにチケットを譲ってもらったので、久々に会場へ。ベースにアンソニー・ジャクソン、ドラムにクリフ・アーモンドというおなじみのトリオ編成。夏のフジロックの印象が強かったせいか、最初の2、3曲を聴いた限りでは弾き語りの方がいいんじゃないかと感じたが、後半どんどん3人の本領が発揮される。途中、「次の曲は『塀の上で』と『中央線』とどっちがいい(笑)?」と茶目っ気たっぷりに客席に問いかけるアッコちゃん。そりゃ「塀の上で」がいいですけど、そんな殺生なこと言わずに両方歌ってくださいよ。
「ラーメンたべたい」のアレンジが聴くたびにすごいことになっていて、この曲はいったいどこに向かおうとしているのかと一瞬不安になる。今回も強烈なドラムソロにはじまり、壮大な間奏部分を挟む即興の共演。なんだこれは、クリムゾンかウェザー・リポートかと呆然とした観客を置き去りにしたままラーメンの前衛はさらに突き進む。スリルの極地。それにしても、これほど楽器を肉体化したミュージシャンって、ちょっと考えてもジミヘン以外にまったく思い浮かびません。
終了後、たまたま会場で遭遇したTさんと渋谷でご飯を食べて帰宅。