ポツドール『激情』@本多劇場

2004年の再演。三年前に初演を見たとき、あまりの衝撃にしばらく凹んだ。夜中にうなされた。まぎれもない傑作だが、とにかく後味が最悪。

話の筋はだいたい憶えていたので今回はもう少し冷静に観ることができたが、それでもやっぱりきつかった。というより、最後の場面の演出に若干変更が加えられていただろうか?

以下、三年前に書いたメモ。今回、見直してみて少し印象が変わったところもあるが、大きな枠組みは変わらない。ネタバレを含むのでこれから観る予定の方はご遠慮ください。あと言っておきますが、たしかに後味は悪いけど『激情』は本当に傑作なので、予定のなかった方も11日までやってますのでぜひ。

 小さな村を舞台にした人間の欲望と裏切り。だが「田舎の閉鎖的な共同体における<悪>」という主題自体はありふれたものだ。アメリカ文学でいえば、ウイリアム・フォークナーがミシシッピ州の架空の町ジェファソンを舞台に綴ったヨクナパトーファ・サーガは一貫してそのようなテーマを掲げているし、いわゆる南部ゴシックと呼ばれるジャンルそのものがそうした閉鎖性を前提としている。閉ざされた人間関係が醸成するグロテスクなまでの悪の描写は、たとえば多くのハリウッド映画にみられるテーマでもある。西洋の作品においては地方社会の抑圧的な構造が倫理的/形而上学的な超越性─言ってみれば「大文字の悪」─に結びつけられて提示されることが多い。それがキリスト教的価値観に根ざしたものであることは言うまでもないだろう。西洋の<田舎>において住民を縛り付けているのは地域の伝統や宗教の重みであり、登場人物の「悪」や「苦悩」も、そのような因習からの逃れがたさとして立ち現れるのだ。

 あるいは西洋文化を参照するまでもなく、日本においてもそうしたテーマは繰り返し描写されてきた。大江健三郎中上健次といった作家たちが探求してきたのは、日本の<田舎>が醸し出すグロテスクであり、四国や紀州を舞台に組み立てられる悪の造形は、こうした神話性を土台にすることによってかろうじて超越性を確保することが可能になるのだ。

 ポツドールの舞台には、こうした超越性は微塵も感じられない。登場人物の行動はあきれるほどに単純で、そこに西洋文化特有の深遠や神話的なファンタジーを見いだすことは限りなく不可能に近い。男はただひたすら友人の女を寝取ろうとし、女はそうした男を利用することのみを考えている(というより、「考えている」という意志すら希薄だ)。観客席にほとんど聞き取れない台詞は、語られている内容が重要でないこと─あまりにどうでもよく、同じような会話は日本のいたるところで繰り広げられているであろう─を端的に表している。『激情』においては、宗教性と神話性が徹底的に剥奪化され、矮小化された悪が閉鎖的な共同体に凝縮した形で現れているのである。だからこそ、最終場面でおもむろに提示される「同性愛」や「同和問題」といったテーマ─従来の「文学」では、これらのテーマそのものが主軸に据えられて「物語」が展開されるはずだ─は、単に「物語」(らしきもの)の「終わり」を告げるオチとしてしか機能していない。

 同じような主題は、昨年阿部和重が発表した最新長篇『シンセミア』にみることができる。山形県神町」を舞台にした三世代に及ぶ壮大なクロニクルには、その町名にもかかわらず「神」は存在しない。いや、厳密にいえば一定の神話性は描かれてはいるのだが、それはあくまでも「神」の失墜を嘲笑するかのごとく空虚なイロニーとしてしか機能していない。ここにも高次の「悪」は存在しないのである。中学・高校時代の人間関係をいつまでもひきずりながら(先輩/後輩、いじめっこ/いじめられっこ)単に表層的な─動物的といってもいい─性の欲望と人間の裏切りが展開されているだけである。

今回、たまたま席が最前列だったこともあって、すべてのセリフが明確に聴き取れたことで若干印象が変わった。「語られている内容が重要ではない」というところ、たしかに『激情』で展開されるセリフはいちいち滑稽なほど「紋切り型」なのだが、その「紋切り型」が醸し出すどうしようもない薄気味悪さ/気持ち悪さが重要だと思った。つまり、宗教性や神話性に依存しないかたちの<悪>─それはもちろん超越性とはまったく異なる性質のものだが─が、それにもかかわらず途方もないグロテスクを醸成してしまうこと、ここのところをもう少し考えてみたい。

あと、ある種の感情─いや、感情じゃない、もっと物質的な何かだ、なんていったらいいんだろう─が少しずつ舞台上に充満して、それが臨界点に達すると唐突に発散される(「激情」!)という構造は、意外なほどシベ少とにてるのかも、と思った。