ファンキー・プレジデント

今日発売の『レコード・コレクターズ増刊 ジェイムズ・ブラウン─永遠のファンキー・プレジデント』に「「セイ・イット・ラウド」のアンビヴァレンス─JBの厄介な政治性を考える」という記事を書きました。

それにしてもすごい表紙だなあ。

JBの音楽については名だたる音楽評論家の方々が執筆されているので、僕はもう少し広い枠組みで、「1960年代のアメリカ社会とジェームズ・ブラウン」というテーマで書いています。JBと公民権運動とののっぴきならない関係について知りたい方はぜひ。

昨年は小島信夫ジェームス・ブラウンという二人の敬愛する作家/音楽家が亡くなり、少なからずショックを受けていたわけですが、こうしてJBについて書く機会をいただき光栄です。僕の文章はいいとしても、とにかくレココレ渾身の特集ですので少しでも黒人音楽に関心のある方は必読ではないかと。オリジナル・アルバム、編集アルバム、映像作品、それにJB'sやメイシオ、ブーツィーなどファミリー関連作品におよぶ圧倒的な資料はいうまでもなく、レア・グルーヴ・ムーヴメントやヒップホップ・カルチャーにおけるJBの重要性についても記事が掲載されています。忌野清志郎近田春夫(面白い!)、ピーター・バラカン諸氏のコメントもいちいち味わい深く、それになんといっても「JBとマント・ショウについて6000字近く書け」との依頼(笑)に「なんども倒れつつ、自分で自分にマントをかけつつ」書いたという安田謙一さんの巻頭記事がむちゃくちゃ面白い。

ところで今回の記事のためにJBに関する一次資料、二次資料を漁ってみて、最近刊行されたアフリカン・アメリカン・スタディーズの研究書も何冊か読んでみたけど、これがまったくもって使えない。いや、僕が書こうとしている原稿には使えないということであって、研究そのものがくだらないわけではもちろんない。ただなんていうんだろう、黒人研究というのはそもそもあからさまに政治的使命を帯びた学問領域であって、そのせいか、ある種の言説がどうしてもタブーになっているような気がする。ようは、黒人を不当に貶める研究が出にくくなっているというか。たとえばJBと公民権運動というテーマでも、理論そのものは洗練をきわめていて、いろんな人がアクロバティックに気の利いたことをいっている。でもオレが知りたいのはそういうことじゃないんだよなあという印象が最後まで拭えなかった。このあたりどうなんでしょう。

華麗なレトリックを駆使して黒人の地位上昇を目論むのではなく、1960年代の黒人社会におけるJBの位置取りに照準を定め、その精度を高めてゆく作業─つまり公民権運動とJBとの政治的/社会的/文化的な距離をできるかぎり正確に測定する作業─がもう少しあってもいいのではないかと思った。実際、イギリス人の歴史学者による研究書の方が面白いものが多く、このあたりは地理的にも精神的にもある程度の距離が必要なのかもという気もしました。身も蓋もない言い方をすれば、社会的正義のみを追求した研究というのはやっぱりつまらんなあという思いを新たにしたわけですが、内田さん的にいえばこれも「語り口」の問題なのかもしれない。

学問が政治的であるいう言い方はもはやクリシェでしかないが、「学問は政治的でないわけではない」といくぶん後ずさりしながらしぶしぶ認めるのと「学問が政治的で何が悪い」と完全に開き直ることのあいだにはやはり大きな隔たりがあって、僕としてはもう少し口ごもりつづけようかなと思いました。