新潮

新潮 2007年 08月号 [雑誌]

新潮 2007年 08月号 [雑誌]

現在発売中の『新潮』*18月号に「反復するメルヴィル」というエッセイを書きました。この前のシンポジウムで発表した内容の前半部分を少し膨らませたものです。

隣のページに掲載された岡田利規さんのエッセイ「初のヨーロッパツアーを終えて」が面白かった。文脈は異なるが、岡田さんのエッセイを読んで19世紀アメリカの二人の作家の言葉を思い出したのでここに引用します。

一人目はヘンリー・ジェイムズ。1879年に発表したホーソーン論のなかで、ジェイムズは次のように言う。

ほかの国々には存在する高度な文明の数々を箇条書きに列挙してもよかろう。それらはアメリカの生活構成には完全に欠けていて、何が欠けていないかわかって驚くくらいだ。「国家」といってもヨーロッパでいう意味での国家ではなく、せいぜい特定の国の名という程度。君主もなく、宮廷もなく、個人の忠誠心もなく、貴族制度もなく、教会もなく、聖職者もなく、軍隊もなく、外交官もなく、地方の紳士もなく、宮殿もなく、城もなく、荘園もなく、古い田舎の屋敷もなく、牧師館もなく、わらぶきの田舎家もなく、蔦のからんだ廃墟もなく、大寺院もなく、僧院もなく、ノルマン風の教会もなく、有名な大学もなく、パブリック・スクールも─オックスフォードも、イートンも、ハローもない─文学もなく、小説もなく、博物館もなく、絵画もなく、政治団体もなく、スポーツ愛好会級もなく─エプソムもアスコットもない!アメリカの生活─特に40年前の─に欠けているものをこのように列挙すれば、イギリス人やフランス人の想像力の上に、概して慄然たるといっていいような効果を及ぼすであろう。それに対する自然な反応はといえば、もしこうしたものが欠けているのなら、すべてが欠けていることになるということだ。

こうしてジェイムズはヨーロッパにあってアメリカにないものを列挙したうえで問う。これだけのものが欠けていて、それでも文学は─そして小説は─アメリカで可能なのか?

二人目はハーマン・メルヴィル。「ホーソーンとその苔」(1850)はメルヴィルが『白鯨』出版直前に発表した文芸評論であり、自国の文学への期待を高らかにうたい上げた小論として知られている。

われわれはゴールドスミスのアメリカ版を求めているのではない。いや、ミルトンのアメリカ版も求めてはいないのである。あいつはアメリカのトンプキンズだと言ってみたまえ、それは真のアメリカ作家について言える最もひどい評言となるだろう。彼はアメリカの作家だといって、それでおしまいにすればよいのだ。なぜなら、彼についてこれ以上立派なことは言えないからである。しかし、だからといって、アメリカの作家は一人残らず創作においてみずからの国民性に固執しなければならないということではない。それはただこれだけのこと、すなわち、アメリカの作家はイギリス人のように、あるいはフランス人のように書いてはならないということだ。そうではなく、彼をして一人の人間として書かせるがよい。そうすれば、必ずや彼はアメリカ人のように書くにちがいない。