ファンク

いま発売中の『ミュージック・マガジン』の特集「スライ&ファンク・ムーヴメント」でアルバム・レヴューを書きました。小出斉さん選出による「これぞ、ファンク名盤50選」のうち、僕が担当したのはジェイムズ・ブラウン『ソウルの革命』(James Brown Revolution of the Mind, 71)、メルヴィン・ヴァン・ピーブルズ『スイート・スイートバック』(Melvin Van Peebles Sweet Sweetback's Baadasssss Song, 71)、ジョー・テックス『アイ・ガッチャ』(Joe Tex I Gotcha, 72)、ビリー・プレストン『ミュージック・イズ・マイ・ライフ』(Billy Preston Music is My life, 72)、オハイオ・プレイヤーズ『スキン・タイト』(Ohio Players Skin Tight, 74)の5枚です。

最近はブルーグラスもヒップホップもスウィング・ジャズサルサも分け隔てなく聞くようになりましたが、もっとも思い入れの強いジャンルは何かと訊かれれば、今でもためらうことなく「6、70年代ファンク」だと答えます。

僕がここ10年以上、結局のところ文学/音楽における「反復」という主題にこだわりつづけているのは、「ファンク」というジャンルに取り憑かれているからです。ファンクの原理──つまり、「同じこと(フレーズ)が延々と繰り返される」とは、いったいどういうことなのか?

60年代後半、ロックは「破滅的であること」をひとつのスタイルとして採用した。ディストーションをかけたギターを爆音で鳴らし、そのノイズに恍惚とする。いかにも苦しそうな表情で声を振りしぼり、楽器を破壊し、ステージ上をのたうちまわる。それは「破滅」を擬似的に演出することで観客とカタルシスを共有する手段である。そして、そうした「破滅」─これはあくまでもスタイルであったはずなのだが─をなぞるように、ジミヘンが、ジャニスが、そしてジム・モリソンが死んだ。現実が表象を模倣する─これこそが、かつてマルクスが「ファルス(笑劇)」と呼んだものではなかったか。

同じ時代に、ファンクは同じフレーズを淡々と繰り返すという手法を選択した。コード進行を最小限に抑え、ただひたすら同じフレーズが反復される。ジミー・ノーレンはJBのバックで延々と同じリズムを刻みつづけ、ジェローム・ブレイリーは、たいしたおかずも入れずに黙々とPファンクのグルーヴをうねらせる。そこには、「破滅」に象徴される解決─そしてそれにともなうカタルシス─は容易にはおとずれない。むしろ絶頂は構造的に絶えず先送りにされている。それがいかに擬似的なものであろうと、破滅/破壊という解決へと向けて展開される「物語」を拒絶すること。安易に狂気の領域を神聖視せず、緊張感のなかでサウンドをストイックに反復させること─それこそが「破滅」を回避し、「生き延びる」ための唯一の手段であるからだ。だからファンクとは、60年代後半に黒人がおかれた状況を表すサバイバルの思想なのである。

そして彼らは、ロックのカリスマたちとは異なり、実際に生き延びた。JBは2年前に死ぬ直前までマントショーを繰り返し、ブーツィーは今年のフジロックで3時間に及ぶステージを繰り広げた。そして今月末、現実を生き延びたもうひとりのファンクの巨人が、遂に来日を果たす。