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ソーシャル・セキュリティ・ナンバーを取得した。嬉しい。あまりに嬉しくて、スタバでコーヒーを注文するときも「ソーシャル・セキュリティ・ナンバーは必要ないのか!」と店員に詰め寄りたくなる。
だが、試練は続く。
ニューヨーク在住の日本人は5万人とも10万人ともいわれるが、ネット上にはそうした日本人コミュニティのための掲示板が存在する。帰国する人たちが家具を処分し、ぼくのように新しくこの街で生活を始めようというものがそれを安価で引き取る、いわゆる「売ります/買います」の掲示板である。
その日、ぼくは本棚を受け取ることになっていた。掲示板をとおして売り出している家族に連絡し、日時を決め、搬送業者の手配もすませ、あとは家にいさえすれば家具が届けられる・・・そのはずだった。もちろん安心はしない。こちらにきて三週間、このような状況で安心してはいけない、という警戒心だけはすでに身体にしみついていた。と同時に、できるかぎりリスクは軽減したという自負もあった。なんといっても相手の家族は日本人である。いざとなれば日本語が通じる。行間やニュアンスや言葉の表情や裏の意味が伝わる相手である。今のぼくは「ぶぶ漬けいかがどすか?」と問われれば、京都人なみのすばやさでその場をあとにすることに無上の喜びを感じることだろう。
午前11時。引取先の家族に業者が到着しているはずの時間だ。電話が鳴る。トラックの運転手からである。車が故障したので、時間を一時間遅らせてほしいという。そうきたか、と思った。だが、これは想定内である。わかった、そのかわりできるかぎり急いでほしい、と釘を刺すことを忘れない。相手の家族に電話を入れ、一時間遅れる旨を伝える。完璧だ。流れるような対応に自分でも酔いそうだ。だが12時になっても電話はない。12時半、しびれを切らしてこちらから連絡すると、まだ修理が終わらないという。イラっときた。つとめて冷静に、いつごろになるのかと問うと2時だとはっきりと答える。いや、それは信じない。2時なんて絶対に信じるものか。おまえなんか絶対に信じないぞ!だがそのように気持ちを強く持ったところで、実は何も解決はしないのだ。とりあえず引取先の家族に連絡を入れる。「こういうことはニューヨークではよくあることなんですよ」と暖かい声をかけられる。若干ぼくがかわいそうな感じだ。「でも荷物搬送用のエレベーターが5時までしか動かないので、それまでにはお願いします」さすがに5時までにはなんとかなるだろう。一抹の不安を抱えながら電話を切る。
2時、当然のように連絡はない。3時、やっと電話が鳴る。今日はもう無理だから別の日にしよう、という。真に驚くべき提案だ。「今日はもう無理」っていつ決まったんだ。しかも「別の日にしよう」ってなぜおまえが決めるのか。レッツじゃないだろ、レッツじゃ。少し楽しげに聞こえるじゃないか。相手の家族も帰国の準備で大忙しである。今日中に引き取らないと彼らも迷惑する。そのくらいわからないのだろうか。「ムリ!」おもわず日本語で怒鳴っていた。このままでは埒があかないと思い、業者の事務所に電話して事情を説明する。こういうことなので別のトラックを5時までに必ず手配してほしい、ときつくいう。そうかそれは大変だな、といきなり他人事である。運転手から連絡がいっていないのも驚きだが、そこはぐっとこらえてスルーだ。必ず5時までに用意しよう、と彼はいった。もう必ずなんて信じない。
4時、業者からの電話に緊張する。おそるおそる出てみると、6時にトラックを手配できるという。だから6時ではダメなんだ、エレベーターが止まってしまうとさっきいっただろ!完全に理性を失っていた。すでに自分が何語で話しているのかもわからない。すると電話の向こうで彼はこういった。「じゃあおまえが先にいって本棚をばらしてエレベーターで降ろしておけばいいじゃないか。6時にそれをわれわれがピックアップする」なるほど。そうか、その手があったか。すばらしい。なんて機転の利く男だろう。「ザッツ・ア・グッド・アイディア!」と思わず声を上げようとした瞬間、ふと思い直した。いや違う。そうではない。そうじゃないだろう。あやうく騙されるところだった。そ・れ・は・お・ま・え・の・仕・事・だ。おまえが5時までに行って家具を降ろしておくんだ。
30分後、ぼくは引取先のお宅でドライバー片手に本棚を解体していた。ぼくをみる家族の眼差しはすでにかわいそうの域をゆうに超え、嫌悪の段階にさしかかっていた。なくさないようにネジを袋にいれ、棚をひとつひとつエレベーターに運び、一階の倉庫に保管する。暗がりの中で待つこと2時間。やっと配送業者が到着する。トラックを降りてきた二人は解体された本棚に目をやり、ぼくの肩をたたきながら満面の笑顔でこういった。「グッジョブ!」
数日後、朝、目を覚ますとAがなにやらパソコンの画面を見ながら電話をかけている。「すごくいいソファとベッドが売りに出ているから買おうと思うの」と彼女はいう。もうやめた方がいい、配送業者でまた揉めるに決まっている。この前のぼくの悲惨な状況を憶えていないのか。もうIKEAでもなんでもいいじゃないか。「ふーん」明らかに聞いていない感じだ。しかも詳細を聞くと、ソファとベッドを売り出している別々のお宅を、配送業者に同じ日(それも数時間以内)に回らせようとしている。無謀だ。そんな奇跡が実現するはずがない。自分でやるのは勝手だが、この件に関しては一切かかわらない!──ぼくはそう宣言して書斎に引きこもった。
約束の日、ぼくは書斎から居間の状況に耳をそばだてていた。案の定、電話が鳴る。ほらきた、とぼくは思った。トラブルの始まりだ。ときおり「ノー!ノー!」と彼女が叫んでいる声が聞こえる。また配送業者が無茶なことをいっているのだ。それにしても彼女は相手の話していることがわかるのだろうか。そうでなくても電話の英語は聞き取りにくいというのに。すると今度は「ナウ!ナウ!」という声だ。かなり苛立っているように聞こえる。さすがのAも苦労しているようだ。ニューヨークの理不尽さを身に染みて感じていることだろう。仕方がない、元気づけてあげなければ、そう思ってしばらくしてから居間を覗くと、彼女はいつものようにYouTubeで『セックス・アンド・ザ・シティ』を観ながら笑っていた。「だんだんキャリーの言っていることがわかるようになるのよねえ」
そして一時間後、不思議なことが起こった。呼び鈴が鳴り、配送業者が時間どおりにベッドとソファをうちに届けにきたのだ。Aの適切な指示のもと、それぞれの家具はしかるべき場所に配置され、彼らはてきぱきとベッドを組み立ててゆく。わずか15分後、完璧な仕事をこなした彼らをねぎらうように、Aはさりげなく二人にチップをわたし、笑顔で彼らを見送った。
惨敗である。これほどの敗北感はいつ以来だろう。もはや敗因は何か、あるいはそもそもこれは何の勝負なのか、それすらもわからない。だがとにかく「人」としての総合力が劣っていることをまざまざと見せつけられた瞬間だ。そうか、そういうことか、よくわかった。ぼくは大きく息を吸いながら、数日前の出来事を思い出していた。
その日、ぼくらは国際ペンクラブ Pen World Voicesのトーク・イベントを観にいった。ミッドタウン・イーストのフローレンス・グールド・ホールでは、ポール・オースターとエンリーケ・ビラ=マタスの対談が予定されていた。以前にぼくはビラ=マタスの『バートルビーと仲間たち』の書評を書いていたこともあり、この機会に直に作家を拝めるのを楽しみにしていたのだ。
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コーディネーターに導かれて二人の作家が舞台に現れ、対談が始まった。ニューヨークはスペイン語を解する人も多く、ビラ=マタスのひと言ひと言に多くの聴衆が反応する。これではまるでオースターがアウェイじゃないか・・そんなことを考えながらぼくは対談に聞き入っていた。それぞれの作家の創作過程、二人の作家のベケットへの想いなどに続いて、やがて話は文学作品における「閉鎖性 closure」と「開放性 openness」の問題に移った。主人公をとりまく閉鎖的な状況を好んで描くオースターと、書けなくなってしまった作家たちの姿をユーモラスに、そして慈しみをもって描き出したビラ=マタス。二人の作家にとってこの主題は決定的なものだろう。そしてビラ=マタスはこういったのだ。最も閉塞的な状況にこそ、最も開放的な文学空間の可能性があるのだ、と。
そうだ。そのとおりだ。ぼくはこの「地獄の台所」と呼ばれるマンハッタンの一角、その戦前のアパートの一室に置かれたパソコンの画面を通して世界をみることにしよう。ニューヨーク、そしてアメリカの広大な現実とのかかわりはAに任せておけばよい。考えてみれば、日本でもそうしていたではないか。幸せそうな笑顔でAが寝静まる暗闇の寝室で、ぼくはディスプレイの光を浴びながら、ひとりカタカタとキーボードを打ち続けていた。