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見にくいので別エントリーにしました。

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"New York is falling apart."──9月のある日、東京とニューヨークを行き来しながら生活するローランド・ケルツ氏とソーホーのカフェで昼食をともにしたとき、ふと彼はこうつぶやいた。こちらに来てからもっとも印象に残っている言葉のひとつだ。

たしかに、ニューヨークではさまざまなものが崩れ去っている。東京から来てまずはじめに感じるのは、この街の汚さだろう。


だがそれには理由がある。あちこちにガタが来ている地下鉄は20世紀初頭に開通したものだし、ブラウンストーンと呼ばれる古いアパートの多くは19世紀後半に建てられたものである。ニューヨークを象徴する、あのエンパイア・ステート・ビルディングですら1931年に竣工したものだ。この街のインフラは基本的に戦前につくられたものなのだ。繁栄と成功の象徴であった数々のランドマークは時を経るごとに色褪せ、灰色に染まっている。

また、崩壊はハードに限った話ではない。


この街で生まれたさまざまな音楽──ティンパン・アレー、ミュージカル、モダン・ジャズ、それに60年代から70年にかけて盛り上がった実験音楽やパンクロック、さらにはヒップホップですら──は、かつての勢いを失っているように見える。

そう、端的にいってニューヨークは今、適度に退屈な街になっている。そして、ぼくはこの「退屈さ」がかなり気に入っているのだ。だいたい20世紀の末に文学を志すような人間に、〈新しさ〉という価値感がさほど意味を持たないのははいうまでもないだろう。

そもそも、ぼくはあの新しい文化やメディアが産まれようとするときの、若者がむやみに興奮し、どこかみな浮き足立ってくる感じが苦手だ。そこでは、まるでそのメディアに携わっていること自体が特権的であるかのような傲慢が横行し、そこに参加していない人々を不必要に蔑む発言が幅を利かせるだろう。


「もう〜なんて古くさくて聴いてられない!」と一見不満を述べているかのような口調には、嬉しくて仕方がないというはしゃぎっぷりが垣間見えるし、「〜界の人たちはこうした新しいメディアに無頓着すぎる!」と怒ってみせる話者は、なによりもその「無頓着」な人びとのおかげで本人の優越感が満たされていることに無自覚だ(と、最近Twitterをやりはじめてつくづく思った)。

朽ち果て、腐臭を放ちつつあるニューヨーク。それはとりもなおさず、多くの論者が勝ち誇ったかのように宣言した「アメリカの世紀の終焉」を象徴しているに違いない。9.11、そして金融危機と2000年代に起きた二つの出来事によってそれは決定づけられたようにみえる。


そして、浮き足立った人々は早々にアメリカに見切りを付け、これから2016年に向けて「南米!南米!」と騒ぎ立てるだろう(あの、オリンピック候補地を選定する際に、東京とシカゴが「落選」したときの皆の喜びようといったら!突然まわりが全員ブラジル人になったのかと思った。)

あの軽薄で、表層的で、それゆえに圧倒的にきらびやかなアメリカの消費文化が腐りはじめている。だが「アメリカの世紀の終焉」などという抽象的な見出しとは無関係に、今も言葉を紡ぎ、音を組み立てる人たちがここニューヨークにもいる。彼らは、もはや自分たちの音楽や小説が世界のシーンをリードしているなどとは思っていない。だがそうした気負いから自由であるが故に、開放的で繊細な作品が数多く生まれているともいえるのだ。滅びゆく文化を彩るのは諦観や諧謔、そしてある種のイロニーや節度である。こちらにきてから9ヶ月間、さまざまな人と話し、街を歩き、ネットを波乗りするなかで僕はこの点について確信した。今、とくに音楽や文学についていえば、ニューヨークはかなり面白い。


その一端はすでに上にあげたリストを通してみえるはずだ。来年は、こうした動きについても少しずつ書いていきたいと思う。ゆるやかに発酵するアメリカの音楽と文学にどこまでも寄り添っていこう──2010年を前に、僕はあらためてこう決意した。