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1月11日(月)
ルーファス・ウェインライトがアッパー・イーストのホテルに出演するというので早速チケットをとる。とはいえ、二人で家を空けるわけにはいかない。断腸の思いでAに譲る。もともと「トゥルー・カラーズ・キャバレー」*1というLGBT運動の一環として開催されるイベントで、客も9割が同性愛者のカップルだったそうだ。「ルーファスも良かったけど、来ている男の子がみんなかわいくてかっこいいの!!」とAは興奮して帰宅。


1月12日(火)
13時、タイムズ・スクエア近くの不動産屋へ。実はまだ迷っているのだが、3月に引っ越しをしようかと考えている。いずれにして今の部屋は1年契約なのでそろそろ決めなければならない。まあでも気に入った場所がなければこの家に住み続けるはず。


1月13日(水)
昼ごろ家を出てバスでレキシントン・アヴェニューまで。パーク・アヴェニューを下って領事館へ。出生届の用紙をもらう。子どもが生まれてから三ヶ月以内に提出しないと自動的に日本国籍は放棄したと看做され、アメリカ人になってしまう。こんな大滝秀治みたいな顔をしてアメリカ人というのも不憫なので忘れずに手続きをしようと思う。

午後、赤ん坊を連れて散歩に出る。


1月14日(木)
ふたたび領事館へ。出生届を提出。娘が帰国する際には日本のパスポートが必要とのこと(当たり前か)。

タクシーで西62丁目のリンカーン・センターへ。敷地内にはニューヨーク公共図書館の分館 New York Public Library for the Performing Arts*2があり、以前に鈴木晶さんに教えていただいていたのだが、今回初めて中に入った。大学の図書館よりも近いし(ここはうちから徒歩10分)、子どものことを考えるとわずかな空き時間に作業するには何かと便利だからだ。

受付でカードを作ろうとすると、住所が記載された証明書が必要だといわれる。郵便物でもいいというので、さきほど領事館に提出した娘の出生証明書を出すが「これはお前の娘の証明書であって、お前の証明ではない」といわれる。「そりゃそうだけど、住所の書かれた封筒でよければこれだっていいだろ。実際ここに僕の名前と現住所が書かれてあるんだから」というやりとりに20分。結局ダメでした。泣く泣く自宅まで戻り、たまたま届いていた『ニューヨーカー』定期購読用の郵便物をもってふたたびリンカーン・センターへ。

ちなみに、Aの仕事の関係でうちはいくつかの雑誌を定期購読しているのだが、割引率がすごい。たとえば『タイム・アウト・ニューヨーク』(日本でいう『ぴあ』みたいな雑誌)は年間購読するとなんと90%引きである。90%引きって要するに週刊誌50数冊がわずか20ドル弱ということだ。今回届いた『ニューヨーカー』も年間25ドルでいいという。いったいどうなってるんだ。これが巷でいう雑誌不況や出版不況と関係があるのか、それとももともとこういう制度なのかはわからないが、とにかくうちにどんどん雑誌が溜まっていくのはどうしたものか。


1月15日(金)
疲れが溜まっている。いま6時間まとめて寝るためならいくらでも金を積む。


1月16日(土)
先週からRichard Hofstadter, Anti-Intellectualism in American Lifeを読み進めている。かなり面白い。少々図式的すぎる点は否めないが、とくにピューリタン社会のリヴァイヴァリズムにそれぞれの宗派(長老派、会衆派、メソジスト、バプティストなど)がどのようにかかわったかについては非常にわかりやすくまとめられている。

ところでぼくは湘南地方出身──とあえていうが、地元の人は逗子にしろ鎌倉にしろ藤沢にしろ茅ヶ崎にしろそれぞれ独自のアイデンティティを持っていて自分たちのことを「湘南出身」とは決していわない。「湘南」は、だからいってみれば湘南以外の人たちが作り上げたイマジナリーな概念である──というだけでとある学会の同世代の連中に「ヤンキー」扱いされることがあるのだが(もしそれだけでヤンキー認定されるのなら細川周平さんもヤンキーになるがそれでもいいのか)、むかしmixiの日記に半分冗談で書いたのは、日本のオタク文化がこれだけ世界に認知されたのにヤンキー文化が広まらないのは、オタクが常に再帰的であるのに対してヤンキーは反知性主義的だからだ、と。てめえ本なんか読んでんじゃねーぞコラァ、を基本的なエートスとする文化が世界に流通する可能性は限りなく低い。

ホフスタッターはアメリカの知的活動の大きな特徴の一つは反知性主義的な反発を常に受ける点にあると喝破するわけだが、だとするとヤンキーとは文字通りそうしたメリケン思想の反知性主義を内面化した連中ということであり、しかもこのトライブが可視化されたのが1970年代から80年代にかけてだとすれば、オタクと同様にヤンキーの出現も(グローバリゼーションの結果としての)ポストモダニズムのひとつの現象としてとらえるべきだ、というのはすでにいろいろなところでいわれてるのでしょうね。

それはいいとして、僕が今、日本のヒップホップに注目しているのは、こうしたヤンキー的反知性主義がヒップホップという世界標準のフォーマットを用いることで、どのような表現を浮上させることができるかに関心があるからです。その意味では、ぼくは日本のヒップホップ黎明期の人たちの作品にはそれほど興味はない。


1月17日(日)
映画ライターのHさん来訪。生まれ育った境遇が少し似ていたり、共通の知人もでてきたりして驚く。