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1月18日(月)
祝日。
Richard Hofstadter Anti-Intellectualism in American Life. ホフスタッターはアメリカの反知性主義の系譜を三つ挙げている。Evangelicalism, primitivism, そしてbusiness societyである。business societyについては、たとえば「ビジネスは積極的で野心的な人々にアピールしただけでなく、それ以外の社会の価値基準を決定づけた。それによって、専門職──法曹、医学、教育、そして聖職界ですら──の人々はビジネスマンを模倣し、自らの専門的業界の基準をビジネスのそれに合わせてしまったのだ」と書いていて、だいたいこれどこの話よ?(原文は19世紀アメリカ社会について述べたもの)という感はある。
でもこの反知性主義、自戒も込めていえば結構根は深いと思う。とくに音楽界隈ではいまだに「だからグダグダいってないで音を聴けばいいんだよ!」とか「そうやって批評なんてなくても、結局この曲を聴いてみんながどう感じるかじゃない?」みたいな素朴な実感主義(ホフスタッターによればこれはprimitivism)が、文学や演劇の業界に比べると幅を利かせているように思う。いや、もちろんこの反知性主義に対して、では何を持って〈知的〉とするか、という原理的な問いはぜんぶすっ飛ばした上での話ですけど。
1月19日(火)
午後まで大学図書館。夕方、Aの語学学校の友人が二人来訪。
夜、突然Aが39度2分の発熱。いろいろ調べた結果、乳腺炎の疑いが濃厚。ナンシーさんに連絡する。もう少し様子を見るようにとのこと。
1月20日(水)
二人のうち一人が倒れると家庭内が機能不全に陥る。熱はだいたい8度5分前後。もちろんAはふらふらしているし母乳は出ないし赤ん坊は泣き叫ぶし完全なるカオス。
1月21日(木)
朝方、Aの熱が7度前後まで下がる。
12時ごろ家を出て、大学へ。フィロソフィー・ホールのRoss Posnock教授の研究室へ。小一時間ほどいろいろ話す。かなり難しい人だときいていたが、人の目を見て話さないだけでむしろ非常に知的な印象を受けた。小津安二郎と原節子の大ファンだというので驚く。原節子が住んでいる街で育ちましたと伝えると、子どものように身を乗り出して「本人を見たことがあるのか!」と追求された。
14時、いったん研究室を出てドッジ・ホールにある音楽学科の図書室で調べもの。16時、ふたたびフィロソフィー・ホールに戻り、大学院の演習に参加。今期はポズノック教授のセミナーに参加させてもらう。お題はAmerican Intellectuals。
初回だったからかもしれないが、レイチェルのセミナーとはまったく違うやり方で面白い。まず、出席を取るときに学生ひとりひとりを「ミスター」「ミス」の敬称で呼ぶのにびっくりした。どうでもいいことだが、アメリカの大学院ではどのタイミングで教官をファースト・ネームで呼ぶかは研究室によって異なる。僕がここ数年夏に訪れているウィリアム&メアリー大学(ハーバードに次いでアメリカで二番目に古い大学)では、修士課程に入った時点で「同じ研究者」とみなされ、院生も教授も互いにファースト・ネームで呼び合っていた。以前にティム(マイケル・ギルモア教授)にこのことをきいたところ、「ファースト・ネームで呼ばせている教授もいるが、わたしは学位をとるまでは許可していない」とのこと。つまり、博士号をとった時点で「研究者として同等」とみなされるわけだ。こちらでも何人か院生に訊いたところ、コロンビアでは院生が教授をファースト・ネームで呼ぶ習慣はまったくないという。それにしても教授が院生を「ミスター・〜」と呼ぶのは予想外。これが東海岸アイヴィー・リーグのエリーティズムなのか。ちなみにレイチェルは学部も大学院もずっと西海岸なので、東と西の違いもあるのかもしれない。
しかも、セミナーは二時間近くひたすら教授がレクチャーするのを院生がメモを取りながら聴く、というスタイル(ちなみにこれは講義ではなく演習の枠)。途中、教授が投げかける質問に院生が答えを挟むものの、基本的に院生はみな緊張しながら教授の話を聞いていて、レイチェルのセミナーでみられるような活発なディスカッションの空気は一切ない。ポズノック教授のレクチャーも見事で、数々の引用を織り交ぜながら即興的な笑いも挟みつつまったくもってよどみない。もちろん、これこそが古典的な人文学の演習スタイルなのかもしれないが、さきほど研究室でお会いしたときの内向的な印象はふっとんだ。実はティムもそうだが、二人で話しているときはどちらかというと寡黙で物静かな印象を受けるのが、壇上に立ったとたんにある種の風格と威厳を持って朗々と話しはじめるのはなんだろう。単純に訓練の賜物ということでいいのか。そういえば夏にお会いした中地さんはニューヨークに来る前に半年間イギリスで客員研究員をしていたそうだが、ケンブリッジ大の大学院の講義は毎回教授がただひたすら「原稿を読みあげる」だけだったそうだ。
なんだか日本にいると、やれ授業はもっとディスカッションをとりいれるべし!(なぜなら欧米ではそうだから!)とか、一方通行の講義は時代錯誤!(なぜなら大学はいつも古くさいから!)とかもっともらしいことをいう人の声がどうしても耳に入るのだが、なんというか、みなさんご自分の得意なやり方でそれぞれ演習や授業を運営すればいいんじゃないですかね、というごくごく穏やかな結論ではダメでしょうか。
1月22日(金)
短い原稿をさくっと書いて送る。
Aの乳腺炎が落ち着いたと思ったら、今度は赤ん坊が便秘に。
1月23日(土)
リンカーン・センターのNYPL図書館へ。執筆に必要な本はここにもそろっていると思っていたが、ふつうの研究書(レア本ではない)を閲覧するにもいちいち荷物を預けなくてはならず、煙草を吸うために頻繁に出入りする身としてはあまり使い勝手は良くないかも。
1月24日(日)
昼ごろ、三人でセントラル・パークを散歩。
Emersonの"Self-Reliance"を再読。