コロンビア大学のコア・カリキュラム(3)

コロンビア大学のコア・カリキュラム(2) http://d.hatena.ne.jp/adawho/20100206 の続きです。

(少し加筆しました。2/13)


コロンビア大学のコア・カリキュラムについて、前回までに一年生必修科目"Literature Humanities"(以下、LH)と二年生必修科目 "Contemporary Civilization in the West"(以下、CC)の内容を紹介した。

一応他の科目についても触れておくと、ライティングに特化した"University Writing"(1学期)、それに講義と演習で構成される"Art Humanities"(1学期)と"Music Humanities"(1学期)が必修科目として共通のシラバスを用いている。この二科目は地の利を活かして美術館見学や音楽会鑑賞がカリキュラムに多数組み込まれているのが特色である。

さらに外国語 "Foreign Language Requirement"(4学期)、体育 "Physical Education Requirement"(2学期)、"Science Requirement"、"Global Core Requirement"があるが、これらはいわゆる日本の大学でいうところの「選択必修」であり、あらためて説明する必要はないだろう。

先のエントリーでコア・カリキュラムに対する批判を紹介したが、アメリカの多くの大学がこのような〈教養主義的な〉カリキュラムを見直すなか、実はコロンビアは最近になってさらに必修科目を増やしている。創立250周年記念事業の一環として2003年に"Frontiers of Science"という科目を新たにコアに導入したのだ。これは"Art Humanities"や"Music Humanities"と同じように講義と演習で構成された半期(1学期)のコースであり、学生が科学の最先端に触れながら「科学的思考」を身につけられるようにデザインされている。これまでのコア・カリキュラムがあまりにもHumanitiesに偏っていたことを是正する意味も当然あるだろうが、いずれにしてもコロンビアでは1、2年生のカリキュラムが文理共通の「教養教育」として組まれており、それが人文学に基礎づけられていることがわかるだろう。

では、実際にコア・カリキュラムはどのようにコントロールされているのだろうか。LHとCCを中心にみてみよう。

このコア・カリキュラムは13人で構成されるCommittee on the Coreという委員会によって運営されている。CCやLHなどの科目別の小委員会の代表者7名にコア・カリキュラムそのもののディレクター、コロンビア大の学長と教務部長、そして驚くべきことに学生代表も3人含まれている。委員会は週に一度昼休みに集まり、小委員会から上がってきた議題などについて話し合うという。ちなみにLHのリーディング・リストは二年に一度見直されるらしい。

さて、LHやCCの場合、1年生1000人を22人ずつのクラスに分けると少なくとも45人の教員が必要になることについては先に述べた。もちろん、ひとりが2クラス持てば23人でカバーできるわけだが、週に4時間あることを考えればひとりが担当できるのは多くても2クラスが限度だろう。

いったいこれほど大人数の教員をどのように確保しているのか。そもそもコロンビアにはコア・カリキュラムを教えるための専属のファカルティーは存在しない。つまり、教員は各学科から出講するかたちでそれぞれの講座を担当しているのだ。たとえば、CCのコースは下記の学科の教員が担当している。

それに対して、LHの担当教員は文学系の学科に集中している。

  • 西洋古典学、英文学および比較文学、仏文学、独文学、イタリア文学、スペイン文学、スラヴ言語学、中東及びアジア言語文化学、哲学、宗教学

ここでいう「教員」とは、各学科のファカルティー(教授、准教授、助教授、講師)だけでなく、いわゆるポスドクや博士課程の院生も含む。つまりコロンビアの人文学(に限らないが)を専門とする教員を総動員してコア・カリキュラムを運営しているのだ。だが、このようにあらゆる学科から教員を集めるにしても、それぞれ自分が所属する学科でも担当科目があるだろうし、それに加えてLHやCCを受け持つとなれば負担以外のなにものでもない。しかもコアの科目を担当するためには準備にも相当の時間を要するだろうし(どの学科の教員でも、これらの講座を引き受けるにはほぼ一から勉強し直す必要があるだろう。原文を読み直し、歴史的背景をまとめ、それぞれの作品の批評史を洗い、生産的なディスカッションをリードするための質問事項を用意する──考えるだけでも気が遠くなる)、率直にいって「コア・カリキュラム」の理念そのものには共感してもできることなら講座は担当したくない、というのが各教員の正直な気持ちではないだろうか。

ではどうするか。

このあたりがいかにも「アメリカ的」だといえるのかもしれないが、ようするにインセンティブを導入するのだ。具体的には、

  • テニュア取得済みの教授がコア・カリキュラムの講座を4学期(2年間)担当すると「夏期休暇用の研究費」が支給される。
  • 若手教員が3年間CCかLHを担当すると「半年間のサバティカル」を取得できる。
  • 大学院生がCCかLHを担当すると「3000ドルの奨学金(夏期休暇の研究資金)」が支給される。
  • ポスドクがCCを担当するための「任期付ポスト(二年間)」がある。

うーん。これは正直唸るしかないだろう。だって3年間CCかLHのクラスを持てば半年間サバティカルがとれるなんて、それ絶対手を挙げるでしょ。挙げませんか?もちろん、サバティカルをとるということは教員が一人抜けるということなので、所属学科で通常まわしている以外に何人もサバティカルを取れば学科の運営もままならなくなる。その意味では、このコア・カリキュラムに対する全学的な信頼が前提になっているのはいうまでもない。

でもこれをやると、今度はサバティカル(あるいは研究費)欲しさにアプライする教員が増えてしまい、コア・カリキュラムそのものへのモチベーションが薄れるのではないかという不安もある。だが、この点についてはそれほど問題にはならないようだ。なぜなら、何度も繰り返すようにLHとCCは共通のシラバスに沿って進められるコースであり、中間考査期末考査には共通テストが学生に課せられる。これが何を意味しているかというと(というか、こんなことは大学に限らず当然といえば当然だが)、教員が少しでも手を抜くと自分のクラスだけやたらと平均点が低くなってしまい、それはそれでだいぶ恥ずかしいことになってしまうのだ。実は何年か前にCCを担当したある教官が自分のクラスにだけ事前にテスト内容を漏らしてしまい、大騒動に発展したこともあるらしい。しかも、学生の教員に対する評価は日本とは比較にならないほどシビアだし、教員側の負担も「手を抜ける」ようなものではない。LHとCCでは8枚から10枚のペーパーを半期に3回提出させるようで、この採点だけでもかなりの時間を要するだろう。そもそも生半可な気持ちでこの科目は担当できないのだ。

結果的に現在コア・カリキュラムを教えるポストの競争率は高く、質の高い教員を確保することに成功しているらしい。そもそも前述したCommittee on the Coreでコア・カリキュラムを実質的に統括しているディレクターは英文科のポスドクであり、教員にも院生やポスドクが数多く含まれている。もともと扱われるテキストが〈古臭い〉ので、かえって若い教員の方が学生も身近に感じられるという効果もあるだろう。

学生の側からすれば、入学後の2年間はLHとCCが大学生活の中心にならざるを得ないのは明らかだ。毎週古代ギリシャから近現代にいたる西洋の古典を大量に読み、週4時間ディスカッションに参加し、ほぼひと月に一度ペーパーを提出し、中間試験と学期末試験を受ける。ここには20歳前後の学生がどのように人格形成をすべきかという、大学の頑ともいえる意志を感じることができる。

コア・カリキュラムの運営についてもうひとつ興味深い点がある。実は、このカリキュラムにかかる費用のかなりの部分はOB/OGの寄付でまかなわれている。担当者に支給される研究費やポスドク用のポストも基本的にはOB/OGによって寄贈されたものらしい。コロンビア大学が誇るコア・カリキュラムはもちろん全学的なコンセンサスのもとで運営されるプログラムだが、数々の批判にもかかわらず長年にわたって維持されている理由の一つは、大学のOB/OGがこのプログラムを強力に支持しているからだという。ようするに、このコア・カリキュラムはコロンビア大学の卒業生と学生を結ぶアイデンティティーとして機能しているのだ。

古代ギリシャから連なるヨーロッパ的知性の継承者としてのアメリカ。コロンビア大学のコア・カリキュラムには、ほとんど時代錯誤ともいえるこうした自意識をかいま見ることができる。逆にいえば、このようなプログラムを100年近く維持するためには、時代錯誤でもなんでもこうした「理念」や「思想」(というか、もっと端的にいうと「物語」)の裏付けが必要なのかもしれない。などと愚考しました。

以上です。何か質問がある人はご自由にどうぞ。わかる範囲でお答えします。