青年団『南島俘虜記』@こまばアゴラ劇場(10/4)

作・演出平田オリザ。平田が二年ぶりに青年団 に書き下ろした新作。大岡昇平『俘虜記』と坂口安吾「魔の退屈」を下敷きにした作品、とパンフレットには書かれてある。

戦時下のとある南の島に日本人の捕虜が囚われている。「前の戦争」と違うのは、女性の兵士が圧倒的に増えたことで、収容所にも男性とほぼ同じ数の女性捕虜がいることだ。彼らは日々退屈と戦っている。それぞれの班には仕事が割り当てられているものの、それに目的や意味があるわけでもなく、みなさぼりがちである。彼らの生命は国際法に則って保障されている。それどころか、収容所内では定期的に健康診断も実施されている。食事は三食きちんと支給され、要求通りCDウォークマンの配給も決定した。捕虜たちは、毎日の食事の献立やセックスのことばかり考えて日々を過ごしている・・・。

全編にわたり大岡昇平の『俘虜記』に依拠した作品だが、「極限状態における退屈」という矛盾した状況を描き出すアイディアには共感する。そもそも大岡が自らの俘虜体験をとおして占領下の日本を風刺的に描き出そうとしたことを思い起こせば、この主題の現代性は明らかだ。ちなみに『俘虜記』は大岡の事実上の出世作であり、発表当初はむしろ第一部「捉まるまで」において展開される「なぜ自分は米兵を殺さなかったのか」という哲学的逡巡に注目が集まった。しかし今読み返すと、そうした「透徹した内省」自体が「退屈」の産物であることに気づく。しかも、そのような「退屈」が戦時下という極限状態において成立していることを忘れてはならない。

平田オリザは大岡の作品をもとに、収容所内での男女のセックスというモチーフ--これには退屈を紛らわす「快楽」という意味と、「国家の継続性(子孫を残す)」という二重の意味合いが含まれている--を付け加えている。大岡の『俘虜記』には収容所内での男色に触れた箇所があるが、それによってドラスティックな変化が生じるわけではなく、捕虜生活における一つのエピソードに留まっている。それに対して平田の『南島俘虜記』では、一人の女性捕虜の妊娠が発覚することで、収容所内の均衡がわずかに揺らぐ。この一瞬の狂いは捕虜たちの心情に微妙な変化をもたらし、あるものは日本に残してきた子供に想いを寄せ、あるものは精神のバランスを崩し始める。結局、芝居は何事もなかったかのように唐突に終わりを迎えるのだが、「退屈」な生活に挿入された「妊娠」という棘によって、不快な余韻を残すことに成功している。

捕虜の生活には過去や未来がなく、ただひたすら不毛な現在が続くだけである。そこには起伏がなく、「物語」が存在しない。このような設定は、たとえば保坂和志に代表される現在の「何も起こらない」小説に対する批評になり得るように思う。保坂の小説における物語の不在や、時折展開される哲学的思索は、しばしば小津安二郎の映画などに結びつけられて論じられている。しかし、保坂の小説世界に普遍性を見出すのではなく、それを「収容所内」での出来事だと考えてみたらどうか。収容所を一歩外に出れば、そこには激しい戦闘がくりひろげられているはずだ。保坂の「退屈」が、極限状態を背景にして初めて成り立つものだと想定すること。こうした視点は、作品の新たな解釈を可能にするかもしれない。

青年団の公演でいつも感じることだけど、今回も脚本とそれを演じる役者の違和感が気になった。ただし穂積(女性捕虜)役の木崎友紀子と山岡(新入り捕虜)を演じた小林智は好印象。