シベリア少女鉄道『天までとどけ』@新宿シアター・トップス (5/13)
あああ。忙しい。もう一月近く前の話題だけど、とりあえず忘れないうちにメモ。
作・演出土屋亮一。各所で話題沸騰の劇団、シベリア少女鉄道を初体験。いやー。なんというか。話題になっている理由はなんとなく分かった。ネタバレしないように書いてみるけど(オチをばらすとこの芝居は面白さ半減。いや、半減どころじゃないな)、ほのめかしてしまうかもしれないので気になる人は読まないように。
開場中はスクリーンに体操選手権のテレビ映像が映し出されている。芝居の基本的な筋も、体操選手とフォトジャーナリストを中心にスポーツ選手の苦悩を描くといった屈折したスポ根もの(これくらいは書いてもいいよな)。それはいいとして、最後にほとんど感動的といってもいいオチが控えていてしびれまくった。以下、感じたことをつらつらと。
スポーツでも友情でも「運動」でも、主題は何でもいいのだが、ある種の「熱さ」(「暑苦しさ」といってもいい)をベタに表現することの格好悪さが前提となっている状況で、それを作品内で処理するにはいくつかの方法がある。例えば小説の分野では、1967年に発表された大江健三郎の『万延元年のフットボール』がそうした主題上の「熱さ」と小説的文体がぎりぎりのところで拮抗しつつ成立した最後の作品だといえるかもしれない。だからこそ、そのような手法の限界を知ってしまった(小説技法としても時代風潮としても)その後の日本の作家は、「熱しきったその後」を事後的に描くことを選択せざるを得なかったのだ。70年代から80年代にかけてデビューした作家、たとえば村上春樹の一連の作品が、そうした「熱さ」を失ってしまった地点から振り返るかたちで構成され、作品世界の背後にかつてあっただろう「熱さ」を幽かに仄めかすーーようするに喪失感を主題にするーー手法を採用しているのは、ポスト大江世代の作家としてきわめて正しい態度だといえるだろう。
いま一つの方法は、そのような「熱さ」が展開される枠組み自体を操作してしまうパターンである。この場合、新たなフレームワークが荒唐無稽であればあるほど作品内容との落差に注意が集まり、ロマン主義的な「熱さ」が希釈されることになる。これはすぐれて知的でメタフィクション的な手法だといえるが、それでも「このような枠組みのなかでしか語れない<熱さ>」といった「あきらめ」の感触は残る。高橋源一郎の作品が、どこか切なさにも似た余韻を醸し出しているとすれば、それはこの諦観に由来しているはずだ。
今回のシベリア少女鉄道の作品も、基本的には後者の方法を採用している。ドラマの後半においてドラスティックに転換されるフレームワークに前半のセリフが流し込まれていく。ただし決定的に異なるのは、1999年に結成された若い劇団にとっては、80年代のメタフィクション作家特有のあきらめや絶望が存在しない点である。ロマン主義的な熱に満ちた時代は彼らにとってもはや振り返るべき過去ではなく、芝居の前半で展開される暑苦しく嘘くさい台詞は、後半の枠組みのなかにきっちりハマることでむしろ躍動的な意味を獲得し、自虐的な笑いとともにストレートな「感動」を呼び起こす。もちろん、オチの内容(うーん。書きにくい)が特定の世代にある種のノスタルジーを呼び起こしはするが、それは喪失感というよりは、「このネタがこの文脈に収まるのか!」という歴史が再構成される瞬間の驚きの感覚に近い。
あと面白いと思ったのは、フレームの転換が無根拠に処理されるのではなく、体操という競技から連想される形態的な類似ーー人間の多様なフォルムと****の形ーーをもとにメタフォリカルに飛躍している点。あまりに意外すぎてぶっとんだ。
ちなみに、まっさきに連想したのはくるりの『TEAM ROCK』に収録されている「LV30」という曲。おそらく世代的にも両者は近いと思うんだけど、どうなんでしょう。