キングス&クイーン

帰国しました。アメリカでは基本的に平日は図書館にこもりっぱなし、夜は図書館で借りたDVDを観るというきわめて慎ましい生活を送っていたのですが、そうした「真夜中のひとり上映会」のなかでとにかく素晴らしかったのが、日本で見逃していた『キングス&クイーン』。

個人的な感想はこの際どうでもよろしい。それより、アメリカ版DVDには特典映像として映画批評家ケント・ジョーンズによるアルノー・デプレシャンのインタビューがついていて、それがとても興味深いのでここにメモしておきます。(以下、ネタバレを少し含みます。)

キングス&クイーン』=「4人の男と1人の女性が関わる物語」について、デプレシャンは次のように答えている。曰く、古典的な演劇や文学においては、伝統的に一人の女性と二人の男性、すなわち夫と愛人という三角関係が物語の推進力になってきた。しかし、映画というメディアにおいては、一人の女性が三人の男性とかかわる設定がしばしばみられる。一人はすでに死んでしまった男性。もう一人は愛していないが一緒にいる男性。最後に、愛しているのに一緒になれない男性。その例として、デプレシャンはウディ・アレンの『アリス』と『私の中のもうひとりの私』、それに『風と共に去りぬ』も挙げている。そして、こうした「一人の女性をめぐる三人の男性」という関係性は、映画特有(pure cinema)の構造なのだと彼は言う。

ヒッチコック『めまい』についてひとしきり話したあと、デプレシャンは映画における一つの真実を提示する。映画の中では、男が一人の女を愛するとき、それ以前に死んだ女性が必ず存在するというのだ。つまり、映画というメディアでは、男が女を愛するという行為は必然的に死んだ女性を取り戻そうとするかたちをとる。この点をデプレシャンは次のように表現している(彼はインタビューに英語で答えている)。

As soon as you start a love life, there is a woman who died before and that you will mourn all your life. And all the women you will meet, they will be pale copies of this dead woman.

愛する女性が必ず過去に死んだ女性のコピーとして現れるということは、男が女を愛しはじめた瞬間に「死んでしまった女性」というオリジナル=原型が遡及的に構成されるということだ。

一方、デプレシャンによれば、女は映画の中で男を愛する以前に一人の男性を殺している。女は、かつて男を殺したという罪の意識を抱きながら現在の男を愛するのだ。こうした男女の対称性について、彼はこう結んでいる。

This male impotence and this female guilt about death is depicted only in the screen. This is pure cinema.

映画の中の男女の恋愛は、それぞれの側に遡及的に「死」を存在させるということ。しかもそれが、現在の二人の関係に決定的な影響を及ぼし、男性には無力感、そして女性には罪の意識をもたらしているということ。

うーん。"pure cinema"という言い方は、トリュフォー以来フランスの映画監督が好んで用いる表現。もちろん、実証的にいえばデプレシャンの発言は突っ込みどころ満載で、彼自身が断っているようにそれはただの「直感」に過ぎない。にもかかわらず、これは刺激的な洞察だと思う。この「遡及的に構成される(オリジナルな)死」というモチーフが、「フラッシュバック」という実際的な映画技法とどのようにかかわるのかがとりあえず気になった。