コロンビア大学のコア・カリキュラム(1)
先週iPadが発表されたとき、Twitterの一部で「教養」について話題になっていた。ジョブスがアップルの理念を説明したときに、どうやら"liberarl arts"の重要性について話したらしい。基本的に僕はチキンで無精なので、Twitter上の荒波に議論を投げかけることはしなかったが、こちらにきてから気づいたことがあるのでひっそりとここに書き留めておく。実は本務校では「教養研究センター所員」という職にもついているので、大学における教養教育について関心を持つべき立場にもある。それにこのサイトを見ている人の中には少なからず大学関係者もいると思うので、もしかしたら何らかの参考になるかもしれない。(いつものように日記に組み込もうとも思ったけど、少し長くなりそうなので別にトピックを立てることにします)。
ぼくはコロンビア大学には客員研究員という立場で来ているので、たまに大学院のセミナーを聴講する以外は基本的に図書館にこもって自分の研究を進めている。だからコロンビア大の「学部生」の教育がどうなっているかについては、もともと知りようもないし関心もなかった。ところが、ある日、いつものように図書館の閲覧室で資料を調べていると、自分のまわりに座っている学生三、四人が同じ本を読んで一生懸命ノートを取っているのに気づいた。あれ、と思って本のカバーを見てみると、それはペンギン版のアリストテレス『ニコマコス倫理学』だった。ちょうど10月で大学も始まったばかりだし、哲学科の学生が授業で読まされているのか、それにしてもこうした歴史ある図書館の中で『ニコマコス倫理学』を読むなんて風情があるなあ、とそのときは思っただけだった。
翌日、今度は別の閲覧室で同じ『ニコマコス倫理学』を読んでいる学生を数人見つけた。これは哲学科の学生というよりは、一般教養の授業で指定されているのかもしれない、それにしてもみんなパンキョーなのに熱心に読んでるなあ、やっぱりアメリカの大学生は勉強するっていうしな、とそのときも特に不思議には思わなかった。
これはおかしいと思ったのは、その次の週のことだ。ぼくはある資料を探すために音楽学科と東アジア学科の両方の図書室に寄った。すると、なんとそこでも同じペンギン版の『ニコマコス倫理学』を読んでいる学生がいるではないか。いや、たしかに二回続いたこともあって、ぼくも無意識に『ニコマコス倫理学』を読む学生を探していたのかもしれない。それにしてもなんだこれは。いくらなんでも『ニコマコス倫理学』読まれすぎだろ。そもそも哲学科とかパンキョーとかじゃなくて、単にめちゃめちゃ流行ってるのか。でも『ニコマコス倫理学』が流行ってるってどういうことか。なにをどうすればこれだけの学生が『ニコマコス倫理学』を手に取るというのか。
というわけで調べてみたところ、意外な事実が明らかになった。
実は、コロンビア大学では学部の一、二年生が履修するコア・カリキュラムというものがあって、いくつかの科目で成り立っている。そして、その中心に位置するのが二年生が履修する必修科目 "Contemporary Civilization in the West" である。これはなんと1919年から続いている科目で、コア・カリキュラムは他にも一年生の必修 "Literature Humanities" に加えて、"University Writing"、"Art Humanities"、"Music Humanities"、"Frontiers of Science"、"Science Requirement"、"Global Core Requirement"、"Foreign Language Requirement"、"Physical Education Requirement" がセットになっているらしい。
この "Contemporary Civilization in the West" だが、 1クラス22人以内で週4時間(いわゆる4コマではなく、4時間。週2日で2時間ずつ)割り当てられている。そして、なんといってもこのコースで課せられるリーディング・リストが興味深い。シラバスを見ることができるのでここに挙げてみよう。
"Contemporary Civilization in the West"’(前期)
第一週
一日目)Course introduction
二日目)Plato, Republic, Books I-III
第二週
一日目)Plato, Republic, Books IV-VII
二日目)Plato, Republic, Books VII-X
第三週
一日目)Aristotle, Nicomachean Ethics, Books I-II; Book V, 1-7; VI, 5-13.
二日目)休講
第四週
一日目)Aristotle, Nicomachean Ethics, Book VIII, 1-13; Book X, 6-9; Politics, Book I, 1-7; 12-13.
二日目)Aristotle, Politics, Book II, 1-5; Book III; Book IV, 1-13.
第五週
一日目)Hebrew Bible: Exodus, Isaiah (1-39), Ecclesiastes
二日目)Hellenistic and Roman Thought: Epicurus (on CC Web); Epictetus, Handbook.
第六週
一日目)New Testament: Matthew; Romans; Galatians.
二日目)Augustine, City of God, Books I; VIII: 4-12; XII; XIV; XIX; XXII: 23-4, 29-30.
第七週
一日目)Qur’an, Suras 1, 2, 4, 56, 112, 114
二日目)Medieval rationalism/mysticism: Aquinas, Selected Writings (pp. 3-7, 14- 29, 30-38, 46-53); Al-Ghazali, The Rescuer from Error (selection on CC web).
第八週
一日目)中間考査
二日目)休日
第九週
一日目)Machiavelli, The Prince
二日目)Machiavelli, Discourses, Books 1:1-13, 16-18, 21, 53, 55, 58; II: 1-3, 29; III: 1, 3, 8-9, 31, 41, 43.
第十週
一日目)Descartes, Meditations on First Philosophy; Galileo, Letter to the Grand Duchess (CC Web).
二日目)Protestant Reformation (Hillerbrand anthology): Luther, “The Freedom of a Christian Man,” and “On Governmental Authority.”
第十一週
一日目)New World: Vitoria, On the American Indians; de las Casas, Apologetic History of the Indies and Thirty Very Juridical Propositions; de Sepulveda, ; Democrates Alter; Or, On the Just Causes for War Against the Indians. (all on CC web)
二日目)Hobbes, Leviathan, chapters 11, 13, 14, 15, 17, 18, 19.2
第十二週
一日目)Hobbes, Leviathan, chapters 21, 26, 29-30.
二日目)Locke, Second Treatise, chapters I-IX
第十三週
一日目)Locke, Second Treatise, chapters X-XIX
二日目)Locke, Letter on Toleration.
第十四週
一日目)予備日
二日目)結論
ざっと見ただけでもプラトン『国家』、アリストテレス『ニコマコス倫理学』、『政治学』、聖書(旧約、新約)、アウグスティヌス『神の国』、コーラン、マキャヴェリ『君主論』、『政略論』、デカルト『省察』、ホッブス『リヴァイアサン』、ロック『統治二論』。これが前期の課題図書。
ちなみに後期の課題図書は以下の通り。ルソー『社会契約論』、『人間不平等起原論』、スミス『国富論』、ヒューム『道徳原理研究』、カント『道徳形而上学原論』、アメリカ独立革命関連文書、フランス革命関連文書、バーク『フランス革命の省察』、ウルストンクラフト『女性の権利の擁護』、トクヴィル『アメリカの民主主義』、ヘーゲル『歴史哲学講義』、ミル『自由論』、マルクス、ダーウィン『種の起原』、ニーチェ『道徳の系譜』、デュボイス『黒人のたましい』、フロイト『精神分析入門』、ウルフ『三ギニー』。
これが二年生の必修科目だ。しかも本当に驚くのは、この科目は学部、専攻を問わず全員が履修することになっている。もう一度繰り返すぞ。これ、文系理系を問わず学部の二年生全員が同じシラバスに沿って履修する科目である。
いろんな意味ですごくないか。日本の大学に務める身として、これは心の底から驚いた。もちろん、とくに人文学を専門とする立場からすれば、こんな時代錯誤にみえるカリキュラムが21世紀にも入って残っていることに単純に驚くし、もっといえば素直にうらやましいとも思う。
と、若干自分でも興奮していたんでしょう。例のiPad祭りのあと、Aにこのことを話してみた。すごいんだよ!聞いてくれよ!もちろん日本の大学でこのまま同じ授業なんてありえないけど、Aが大学に入ってこういう授業があったらどうかな。面白いかな。すると、みたことがないほど退屈そうな顔をして聞いていたAはこういった。「うーん。どうかな。私それ出ないかもしれない。それよりおしめ替えてくれない?」
うん。おしめは替えるよ。でもそうか。Aは出ないか。仕方がない。でもこれ必修なんだけどな。それより、実際にこれどうやって授業を運営しているのだろうか?課題図書は変わらないのか?あるいはもっと決定的なのは、これいったい誰が教えてるのか?ようするに、このコア・カリキュラムは誰がデザインしてどこに責任があるのか?とかいろいろ疑問が浮かんだ。浮かびませんか?そこでいろいろ調べてみた。次回はその調査の結果を報告したいと思います。(続く)
付記)コロンビア大学のコア・カリキュラム(2) http://d.hatena.ne.jp/adawho/20100206 に続きました。