最近のお仕事
学期が終わった直後に出発した小旅行から数日前に帰還。これから山積みの仕事を一つずつこなさなくては。なんだけど、一部新聞等で話題の「預かり金流用の「日本学会事務センター」が破産へ」(読売新聞) の影響でかなり面倒くさいことになってきた。うちの大学は現在日本アメリカ文学会東京支部の事務局になっていて、今後の対応についてなにかと事務作業に追われる。しかしなあ。自社ビル建設に伴う借金返済に預かり金流用って、とにかく人のお金は勝手に使わないでいただきたい。
という訳で最近のお仕事。
日本メルヴィル研究センター(明治大学牧野研究室)が刊行するSky-Hawkという研究誌に小論「憂鬱者は何を喪ったのか?ーー「ベニト・セレノ」における所有の詩学」を執筆。昨年6月に博士論文を提出して以来メルヴィルからは少し遠ざかっていたのだが、口頭試問の際に「このテーマで「ベニト・セレノ」論が収録されていないのはおかしい」と指摘され、それはもうまったくもってそのとおりだと思ったのでなんとか書き上げる。
近代的所有権確立以降も維持され続けたアメリカの奴隷制ーーいうまでもなく、これは人が人を所有する制度であるーーについて、メルヴィルの作品中最もあからさまに人種問題を扱っている中篇「ベニト・セレノ」に即して論じたもの。しばしば奴隷は「モノ」として扱われたなどと簡単に記述されることが多いが、奴隷が犯罪を犯せば当然のごとく罰せられるわけで、その意味で奴隷は交換の対象としての商品であるだけでなく、懲罰の対象としての法的主体でもある。実際に19世紀アメリカにおいて奴隷が<法的に>どのように定義されていたのかということに関しては、意外とはっきりしていないみたいで(動産/不動産扱い、奴隷を所有/奴隷の労働力を所有など州によって微妙に異なる)その辺りはもう少し突っ込みたかったかも。議論は、同時代に施行された逃亡奴隷法を中心に「奴隷を所有する」という問題を考察し、『白鯨』第89章「仕留め鯨、はなれ鯨」に描かれる捕鯨上のルールーーいったん仕留めた鯨が逃げて別の捕鯨船にとらわれた場合それはどっちのものになる?ーーと結びつけつつ、「ベニト・セレノ」最終場面におけるあまりに有名なドン・ベニトの「憂鬱」へと着地させる構成。
次に、鈴江璋子先生の退官記念論文集『英米文学のリヴァーヴーー境界を越える意志』(開文社出版、2004年)に拙論「<国民歌謡>の誕生ーーカール・サンドバーグとアメリカ音楽史」が収録されています。これは昨年、アメリカ文学会東京支部月例会の詩分科会で発表したものに加筆・修正したもので、基本的な問題意識は以前に書いたブルース論と同じ。「アメリカ大衆音楽史」そのものがどのように形成されてきたかという、いわばメタヒストリカルな視点からサンドバーグが1927年に発表した『アメリカン・ソングバッグ』を位置づけたもの。アメリカ文学史上はプロレタリアート詩人、あるいは草の根詩人などと呼ばれることの多いサンドバーグだが、映画評論家としての側面や、新聞記者としてシカゴの人種暴動を取材したものなど、ふだんなかなか言及されることのないサンドバーグの一面についても触れたので興味のある方はご連絡ください。