シニフィアンのかたち

シニフィアンのかたち―一九六七年から歴史の終わりまで

シニフィアンのかたち―一九六七年から歴史の終わりまで

ご恵贈ありがとうございます。>三浦さん

祝邦訳刊行。日本では英米文学研究者以外にはまだあまり知られていないが、これ必読です。多文化主義フェミニズムに関わる人だけでなく、脱構築批評に傾倒する方々にもぜひ読んでもらいたい。

ウォルター・ベン・マイケルズは今、アメリカで最も「屁理屈が冴えわたる」論者だといってもいいだろう。よく知られる彼の主張─「人種は存在しない」─は、アカデミズムの領域において「アフリカ系アメリカ人研究」や「アジア系アメリカ人研究」など人種や民族による細分化が進むアメリカでは、いたるところで反発を引き起こしている。

この本におけるマイケルズの主張は明快である。テキスト読解において人種/民族などのアイデンティティを尊重する思考と、テキストの物質性を重視する脱構築批評(たとえばド・マン)は、「テキストの意味=解釈」ではなく「読者の経験」を肝要だとする点で同じ穴の狢である。テキストの「物質性」を(いくぶん詩的に)強調することは、結局のところ「意味」ではく「効果」に重きを置くことで、読者の経験=主体の位置に還元してしまう。その際、主体が本質主義的か構築主義的かは実は問題ではない。なぜなら、その二者択一を問題にしている時点で、読者の経験=アイデンティティの側に加担してしまっているからだ。

こうして(いや、ほんとはもっといろいろあるんですが、すっ飛ばして言うと)多文化主義的なアイデンティティ主義、あるいはフェミニズム、クイア・セオリーなどの構築主義的な主体観、それに脱構築批評など(もちろん読者反応理論や解釈共同体など「読者」の側に立った理論を含む)を鮮やかに結びつけたうえで、マイケルズはこう主張する─テキスト読解において重要なのは「作者の意図」だけであると。

「作者の死」(ロラン・バルト)を前提として文学研究に携わるものにとって、この言葉はあまりに反時代的に響くだろう。だが「作者の意図」を措定することでのみ、テキストをめぐって解釈=意見の不一致が問題になりうるのだ。読者の経験に不一致は存在しない。そこには差異が─そしてその差異を強調する思考が─あるだけである。

本書が興味深いのは、そうしたアイデンティティ主義や読者中心の批評理論の隆盛について、歴史的に考察している点である。

それはつまり、もしモダニズムが、客体としての芸術作品への意識と、作品とその読者、観客との関係への関心によって定義づけられるのなら、このような美学的な興味はそれ自体、それに平行した人種のアイデンティティの発明、さらにそのさきでの、そのアイデンティティの文化アイデンティティへの変容と、主体の位置という概念の特権化との関係のなかでうまれたものなのだということである。(29頁)

あとがきで訳者の三浦玲一さんが言っているとおり、マイケルズの立場が「啓蒙のプロジェクトの復興」に酷似しているのは否めないが、それを差し引いても議論そのものが刺激的。その明晰な(明晰すぎるかもしれない)立論にほとんど騙されているかのような気持ちになるのだが、とにかく一人でも多くの方に本書を読んでもらって、マイケルズに対する反論を提出していただきたい。マイケルズ自身が反論を促すような─つまり意見の不一致を前提とするような─書き方をしているのだから。