講演:"The Recorded Journey of Bluesman William 'Big Bill' Broonzy, 1893-1958"@上智大学アメリカ・カナダ研究所(12/5)
現在、フルブライト訪問教授として琉球大学につとめるロジャー・ハウス氏(エマソン大学助教授)の講演。ブルース・ファンの間では「ビッグ・ビル」の愛称で知られるウイリアム・ブルーンジー。ハウス氏は20世紀初頭の黒人コミュニティーのリサーチを通してこのブルースマンに出会い、本格的に研究しようと思い立ったという。
講演自体は、一般向けということで内容も紹介が中心。ただ一つ気になったのは、ビッグ・ビルの唄うブルースの歌詞を律儀に当時の黒人社会の表象としてとらえていた点。ある歴史的事象を既存の「歴史」にすべて還元してしまう手法は、コンテキストとしての歴史があらかじめ固定されているために、あまり生産的な議論になりにくいように思う。ハウス氏の関心がブルースそのものというよりも、20世紀初頭のアフリカ系アメリカ人コミュニティーにあるためにこうした議論の構造になるのかもしれない。いずれにしても、「新歴史主義」という方法論に何か新しさがあるとすれば、テキストとコンテキストの差異を意図的に消去し、すべてを前景化させたうえでテキストのダイナミックな解釈を可能にした点だと思うし、そのような方法論を知ったうえで聞くと、今日の講演も少々素朴に聞こえたのは確か。
講演後の飲み会で、中村とうよう監修の『戦前ブルース』を見せたらかなり興奮していた。あと、ハリー・スミスの『アンソロジー』について、「白人音楽と黒人音楽の境界線を曖昧にするような編集意図についてどう思うか」と聞くと、「いや、ブルースというのは、黒人コミュニティーに深く根ざして外部から隔離されて育まれた音楽文化だ」とかなり真面目に力説されたので少し面食らう。こういう言葉が、アフリカ系アメリカ人であるハウス氏自身から出てくると、なかなか反論は難しい。それを本質主義的だといってしまうのは簡単だけど、「研究」の動機付けにそもそもそうしたアイデンティティー・ポリティクスが深く関わっている場合、こちらが思わず言葉を控えてしまう状況がある。要するに、ブルース・ファン歴30年の日本人が、研究のためにブルースを聴き始めてわずか一年のアフリカ系アメリカ人と話したとしても、その日本人にとって「ブルース」は「あなたの文化」であり、そのアフリカ系アメリカ人にとっては「われわれの文化」なんだよなあ。
二次会で何故か『ラスト・サムライ』の話になったとたん、「オレは4年前から小雪に目を付けてきた!」と鼻息荒くなったのには笑った。なんだよ。それならそうと早く言ってくれよ。その後、ひたすら馬鹿話で盛り上がる。二次会が終わったあともまだ飲み足りないらしく、名残惜しそうにしていたのを強引にタクシーに押し込む。「東京のタクシーは危険だからオレは絶対に一人では乗らない!」って、誰がそんなデマを吹き込んだんだ!とにかく陽気なアメリカ人でした。