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スーツケースふたつ(68キロ)と手荷物(15キロ)、それに疲労と時差ボケをかかえながら14日昼にJFKに到着。シャトルバスを乗り継いでマンハッタンはヘルズ・キッチンの新居へと向かう。ドアを開けると当然のごとく中は空っぽで、しばし呆然とする。これからゆっくり生活を整えればいいのだ、と自分に言い聞かせる。整えているうちにいつのまにか帰国が迫っている、という光景があまりにリアルに浮かんだので必死に振りはらう。

今週はひたすら書類を書いたり出したりしているうちに終わった。しかも事態がスムーズに進行するはずもなく、数々の手違いや勘違いやたらい回しに見舞われる。大学関係(ビザ更新、ID作成、図書館カード)や生活関係(携帯電気ガス水道電話銀行)の手続きにとりかかるが、とにかくこの国はソーシャル・セキュリティ・ナンバーがないと何ごとも進まない。大学の留学センター(International Students and Scholars Office)で問い合わせるとソーシャル・セキュリティ事務所に行けといわれたので、そちらに向かうと今度はコロンビア大学留学センターの承認が先だとそっけない。仕方がないので再び大学に戻ると、こちらではもうすることはないとはねられる。まるでカフカの『城』のようだ。ちなみに留学センターは122丁目、ソーシャル・セキュリティ関連事務所は48丁目である。キャンパスに楽しげに集う学生を尻目に何度も地下鉄で往復する。ニューヨークはかくも不条理な街なのか。

というわけで、いまだに電話が開通していない。こちらの電話はローカルと長距離のキャリアを別々に申し込むことになっていて、かつそれにネットのプロバイダーも選択できる。そこに、自分の利用環境に応じてさまざまな「セット価格」が選択肢として提示されるのだが、そうでなくても見慣れない業界用語ばかりでフラストレーションがたまるのに、生来の猜疑心──ぼくは今、目の前の人間に騙されているのではないか。本当はもっとお得な「セット」があるのではないか、事情をよく知らない日本人だと思って高い商品を売りつけられているのではないか、こんなにフレンドリーな態度を装っているがこの人はぼくが想像もつかない悪意を潜ませているのではないか、ほら、今、ほんの一瞬だけ、ほくそ笑むような表情を浮かべたのをぼくは見逃さなかったぞ!──がわきおこり、ネガティブな想像力はどこまでも自由に羽ばたいてゆく。ふだんは失笑とともにやりすごしている「ポジティブ思考」という言葉の真の意味を理解したのはこのときだ。ふと気づくと心の中で「前向き、前向き」と呪文のようにつぶやいていた。

結局、最後まで完全には理解できず、それでも自分にとって最善と思われる「セット価格」をやっとの思いで決断し、あとは決済のみという段階になって担当者はこう言った。「では、きみのソーシャル・セキュリティ・ナンバーを教えてくれたまえ」。

日本を発つとき、Aは太陽のような笑顔で「軌道に乗るまではいろいろ大変だと思うけど、うまくいかなくてもあまりイライラしないで。ドラクエ気分でね!」と激励してくれたのだが(この人の頭の中は、本当にマンガとゲームでできていると思う)、このときの絶望感を正確に伝える言葉をぼくは知らない。例えていうなら、それは数々の関門を突破した末に、最後の力を振り絞って倒したボスキャラが実は最後の敵ではなかったという、あの途方もない絶望感に似ているのかもしれない。

「ソーシャル・セキュリティ・ナンバーはまだない・・」と打ちひしがれていると、担当者はどこか憐れみと蔑みを含んだ表情であっさりとこう言った。「では取得してからもう一度来るんだな。」

このままでは心が折れてしまうと思ったぼくは、ニューヨークに押しつぶされる前に音楽を聴こうと決意した。そう、この街には音楽が溢れている!情報誌をめくると、意外な名前を発見することができた。Todd Rundgren@City Winery。トッド・ラングレン。すばらしい。たしかに、今のような精神状態で"Be Nice to Me"でも歌われたら、あまりに切なすぎて本当に手首を切ってしまうかもしれない。だが、それでもいいではないか。"Be Nice to Me"。今、ぼくがニューヨークに向かって全力で叫びたい言葉だ。よし、ニューヨーク初ライブはこれで決まりだと思って日程を確認すると、公演はすでに二日前に終了していた。

トッドにも見離され、もはや立ち直れないほどの挫折感を味わいつつ、ふと横を見るとFlying Lotus+Kode9@Rose Center for Earth and Space (at the American Museum of Natural History)という文字が目に入った。フライング・ロータス?昨年最も聴いたアルバムのひとつだ。でも、なぜ自然史博物館?調べてみると、どうやら博物館の一角をクラブに見立ててパーティーが催されるらしい。そこでフライング・ロータスとKode9がDJを務めるというわけだ。このイベントはシリーズ化され、以前にカニエ・ウエストも出演している。これに行ってみよう。日本ではクラブなどほとんど足を踏み入れたことがない──でもそのときどきにクラブで流行している音楽には人一倍関心がある──生粋の陸クラバーのぼくでも、ニューヨークでならクラブ・デビューを飾れるかもしれない(クラブじゃなくて博物館だろ、という突っ込みはなしだ)。なぜなら、ここニューヨークではクラブで挙動不審の男がいたとしても、それは「ぼく」ではなく「怪しげな日本人」というカテゴリーに分類されるからだ。少なくとも、そう思い込むことはできる。

西海岸屈指のエクスペリメンタル・ヒップホップDJ、フライング・ロータス。そのプレイは意外なほど躍動感に充ちていた。大きく身体を揺らし、サンプラーとラップトップを自在に操りながら徐々にフロアを盛り上げてゆく。いかにもヘッズらしい若者から完全にドレスアップしたカップルまで、誰もが彼のサウンドに身を委ねている。いつのまにか館内は不気味なグルーヴで満たされ、ローズ・センターはディストピアンな異空間へと変貌を遂げていた。初めてのクラブで少し酔いが回っていたぼくは、そのサウンドに溺れることで現実の苛酷さから一瞬だけ逃れることができた。

パーティーが終わるころ、ぼくはもう一度だけ電話を開設してみようという気になっていた。