13

12月7日(月)
午前中、産科医と小児科医が病室に来て診察。

出産時の出血が多かったため、ある検査の結果を待ちその数字が20以上だったら退院、以下だったらもう一泊するようにといわれる。実は昨日、Aは貧血で一度意識を失っており、本当はもう少し病院にいた方がいいのではないかと思っていた。結果は22。ギリギリじゃないかと思ったが、あっという間に退院の手続きに入らされる。しかも最後までこれが何の数字なのかわからなかった(とにかく病院で使われるラテン語ちっくな医学用語をいちいち辞書で引くのはとっくの昔にあきらめた。面倒くさすぎる)。12時、Aはふらふらしたまま病院をチェックアウト。

自宅に戻る。だが、考えてみたら赤ん坊の取り扱いについて僕らはなにひとつ知らないではないか!授乳の方法やおしめの替え方、それに沐浴の仕方について、たしかに両親学級でもやったような気がするし、出産翌日に病院で5分くらい説明を受けた気がする。でも産まれる前はなかなか赤ん坊のことを現実的に想像することができず、二人ともほとんど何も聞いていなかったのだ(Aにいたっては「妊婦は眠いのよ」といって、両親学級の間ほぼずっと寝ていた。受講していたのは僕ら一組だけなのに)。

なんとか義母の助けを借りつつ試行錯誤するものの、授乳がうまくいかない→赤ん坊ガン泣き→僕ら動揺する、の悪循環でいきなり初日から疲弊する。


12月8日(火)
Aと義母を家に残すことに不安を憶えつつ、13時半ごろ家を出て大学へ。セミナー最終回。最後は受講者が投票で選んだCormac McCarthyのThe Road。2006年ピュリッツァー賞受賞、全米批評家協会賞候補作。

The Road (Vintage International)

The Road (Vintage International)

ちょうど映画が公開されたこともあり、小説との違いなど軽めの話題からディスカッションが始まる。マッカーシーはフォークナーの影響を公言するが、この作品に見られる神との対話カニバリズムの是非などの主題はむしろメルヴィルを思わせる。だとすると、本作は文学史的には『白鯨』(メルヴィル)から『路上』(ケルアック)の流れに位置づけることができ、議論は必然的にアメリカの帝国主義や例外主義と「ロード」とのかかわりへと進む。

1933年生まれのコーマック・マッカーシーは年齢でいうとピンチョン(37年生まれ)よりも上だが、1992年のAll the Pretty Horses(『すべての美しい馬』)で多くの読者を獲得するまで長期にわたって極貧生活を送っていたという。また極端に露出を嫌い、それまでインタビューらしきものはほとんど受けてこなかったが(ほとんど唯一といってもいいのがニューヨーク・タイムズのこれ*1)、2007年によりによってオプラ・ウィンフリー・ショウに出演し、結果的にそれが『ザ・ロード』の爆発的なヒットに繋がったといわれている。

演習のあと、レイチェル・アダムズ教授にお礼とご挨拶。レイチェルとはこれまでも個人的に何度か話してきた。彼女の新刊がちょうど出たばかりで、その問題設定が僕がいまかかえている音楽関係のプロジェクトとも少しかぶるのだ。たぶん年齢も近いはずだし、彼女には3歳と1歳の子供がいる。そんなこともあって、4月にこちらにきてから公私にわたって相談にのってもらってきた。「あなた、こんなところにいないで早く家に帰りなさい!」と最後に叱られる。

Continental Divides: Remapping the Cultures of North America

Continental Divides: Remapping the Cultures of North America

17時過ぎ帰宅。授乳が思うようにいかず、赤ん坊はひたすら断末魔のように泣き叫んでいる(それにしてもこれすごいな。ほんとにみんなこれをくぐり抜けてきたのか。世界中の親を無条件に尊敬したい気分だ)さすがのAもかなりブルーに。このままではどうにもならないと思い、ナンシーさんに連絡する。明日にでもすぐ来なさいとのこと。


12月9日(水)
12時、家を出る。生後4日の赤ん坊を外に連れ出していいものなのか若干の不安にかられつつ、タクシーを拾って191丁目へ(ちなみに自宅は57丁目)。両親学級でお世話になったナンシーさんの自宅まで。韓国で生まれ、日本で育ち、アメリカで30年以上助産婦として活動されてきた方である。83歳の現在もニューヨークの日本人向け新聞で連載をもつなど精力的に活動している。「出産は病気じゃないんだからそもそも医者が出る幕じゃない!」といいつつも、居間の本棚には最新の医学書が並んでおり、ところどころ付箋が覗いている。

ナンシーさんは自然分娩、母乳育児の大切さを力説するが、いわゆるスピリチュアルなところがほとんどなく、おばあちゃん特有のユーモアにもあふれていて押し付けがましくない。「油断するとすぐ帝王切開したがる医者もいるからね、あなたたちも分娩室の機器の数字くらい最低限読めるようにしておきなさい。」「アジア系の赤ちゃんは黄疸が出やすいのですぐ入院を勧める医者もいるけど、ビリルビンの値が〜以下ならちゃんと断るのよ」など、実際にどこまで役に立つかわからないアドバイス(だって現場の医者にこうした方がいいっていわれてなかなか反論できないだろう)も含めて、僕はナンシーさんの基本的な姿勢にすごく共感していた(でも授業はあまり聞いてませんでした、すみません)。今回も授乳の仕方から赤ん坊の寝かし方まで懇切丁寧に教えていただき、本当に助かった。こういうときに頼りになるのはプロのおばあちゃんだなあと心の底から思った。

16時過ぎにナンシーさんのお宅を出て、タクシーで今度は84丁目へ。小児科初検診。血液検査など一通り受けてから帰宅。

深夜、小児科から連絡があり、黄疸値が通常よりかなり高いので、また明日血液検査をするようにいわれる。


12月10日(木)
10時、ふたたび小児科へ。血液検査。だんだん二人とも無口になる。帰りのタクシーでふと横を見ると、あまりの疲れからかAの顔がまるで亡霊のように透き通って見えた。

それにしても、と思う。どうも日米ともに最近は出産に関して「自然」志向が強まっているようで、それがいろんな意味で女性にプレッシャーになっているような気がする。もちろんそのことについて僕がとやかくいう資格はないが、たとえば「なるべく麻酔はしないほうがいい」(胎児に影響を及ぼすから)とか、「なるべく母乳で育てた方がいい」(粉ミルクよりも母乳の方がいいから)という言説が広まることで、普段は「スピリチュアル」なんて鼻で笑い飛ばすような女性ですら、なんとなく抑圧を感じてしまうのではないか。

ひとたび「自然な出産がいい」──というのは、ようするに「動物としてそれが自然である」ということらしいが、そもそも「人間は動物としては壊れている」というのが精神分析の知見ではなかったか──という〈理想〉が掲げられると、あとは必然的に減点方式にならざるをえなくて、「ちょっとだけ麻酔を打ってしまった」とか「ちょっとだけ粉ミルクをのませてしまった」というのがいちいち挫折感として心に刻まれてしまうのではないか。この「100点を取れなかった感」は人によっては相当きついのではないかと思うけど、どうなんでしょう。それともこんなことはまったくの杞憂で、女性はこと出産に関してひ弱な男どもが想像する以上にしたたかなのでしょうか。いずれにしても、出産で心身ともにボロボロの状態で授乳もうまくいかず赤ん坊は泣き続けている──こんなときにそもそも「粉ミルクをあげるべきかどうか」に関して適切な判断を下すのは難しいのではないか、と愚考するのですが。

夜、小児科から電話。数値が下がってきているのでとりあえず入院は見送るとのこと。


12月11日(金)
授乳がうまくいこうといくまいと、結局赤ん坊はガン泣きする、ということがわかる。

我が娘がどこからどうみても大滝秀治にしか見えない件についてAと緊急の話し合いを持つ。


12月12日(土)
赤ん坊は授乳→ガン泣き→睡眠をほぼ一時間半ごとにくりかえしている。僕らもそのサイクルに巻き込まれ、起きている時間も朦朧として何もする気が起きない。


12月13日(日)
朝、タクシーで義母とともにJFKへ。10時半に空港。あらゆる面でフォローしてもらった義母を見送る。本当に助かった。冷蔵庫には和食のストックがたくさん詰まっている。

さて、これから本当に二人きりで乗り切れるのかと一抹の不安をかかえながら、地下鉄で帰る。

新人小説月評

まだ実際の雑誌を見ていませんが、いま発売されている『文學界』で「新人小説月評」を書いています。今月が最終回なので、この六ヶ月で取り上げた54作品のうち個人的なベスト5も挙げました。

文学界 2010年 01月号 [雑誌]

文学界 2010年 01月号 [雑誌]

12

11月30日(月)
午後、病院。

夕方、原稿を送る。


12月1日(火)
昼過ぎに大学へ。14時、フィロソフィー・ホールでセミナー。Junot DiazのThe Brief Wondrous Life of Oscar Waoを読む。2007年度全米批評家協会賞およびピュリッツァー賞受賞。

The Brief Wondrous Life of Oscar Wao

The Brief Wondrous Life of Oscar Wao

トニ・モリソン・ミーツ・『電車男』。いや、別にトニ・モリソンに似ているわけではないが、要するにマイノリティ・ファミリー・サーガ+オタク文化。文体は日本でいうなら舞城王太郎佐藤友哉に近いかも。

先日の『ユリイカタランティーノ特集号にも書いたが、この黒人+オタク文化(中国、香港のカンフー映画や日本のアニメなど)という組み合わせは、たとえば音楽でいえば90年代にすでにウータン・クランが体現している。だからミチコ・カクタニがニューヨーク・タイムズでこの作品を絶賛したとき*1に、バルガス・リョサスター・トレックカニエ・ウエストといったのは正しい。最後のカニエはおそらくヒップホップという意味で付け加えたのだろうが、カニエ・ウェストのPVがあからさまに『アキラ』をパクっていたことを思えば、その正しさはさらに裏付けられる。それにしても、『アキラ』の影響力はすごい。この作品のなかでも主人公が1988年に公開されて以来「1000回以上観た」という記述があるのだが、こちらのアニメ好きの連中に話を聞いても未だに重要な参照点になっているようだ。

しかも、『ユリイカ』で紹介した「チーズの美学」──それはソンタグが論じる「キャンプの美学」と比較するとわかりやすいのだが──はこの作品にも当てはまる。セミナーのディスカッションで、実際のところこの新種の感性がどの程度広まっているのか院生のみなさんに投げかけてみたところ、「あーはいはい。チーズ、チージー(cheesy)ね。たしかにこの作品はそうだよねえ」とにやにやしながら頷いていたので、それなりに浸透しているんだと思う。

ちなみにこの作品も翻訳が進んでいるはず。ところどころスパングリッシュになっていて英語とスペイン語が入り交じっているし、とにかく文体がものすごく口語的なので翻訳は本当に大変だと思います。ただし、アメリカ文学の「新しさ」がもっともわかりやすいかたちで提示されている作品のひとつではないかと。


12月2日(水)
終日大学図書館


12月3日(木)
11時、50丁目の駅まで歩き、地下鉄とエアトランズを乗り継いでJFKへ。ターミナル4に着陸予定のノースウェスト航空が直前になってターミナル3に変更になり、慌てる。なんとか義母と落ち合うことに成功。タクシーでマンハッタンの自宅まで戻る。

19時半、渡辺と4人で近くのタイ料理屋*2で食事。


12月4日(金)
11時、大学へ。116丁目の本キャンパスと124丁目の国際センターを何度も往復してさまざまな手続き。さらに郵便局でもろもろの書類を発送。途中、Aから「痛いの来た!」というメール。これまでも何回かそういうことがあったので適当にやり過ごす。アジア系のスーパーで買い物をして、18時ごろ帰宅。

19時、Aの陣痛がはじまる。20分から30分間隔。今回はほんものらしい。

22時、陣痛が5分間隔に。23時、一時間経過。この時点でかかりつけの産婦人科医に連絡するようにいわれていたので電話する。すぐに病院に行けとのこと。荷物をまとめて徒歩三分のルーズヴェルト病院へ。


12月5日(土)
24時ごろ、産婦人科トリアージで診断。まだまだかかるとのこと。家が徒歩圏内にあると伝えるといったん帰宅してから出直してこいといわれる。

2時ごろ、3-4分間隔。

Aはこの日のために周到に準備していた。『テレプシコーラ』と『ガラスの仮面』と『乙嫁語り』の新刊を日本から取り寄せ(彼女が今、何よりも夢中になれるもの)、陣痛から気をそらすためにわざわざ読まずにとっておいたのだ(→まったく効果無し。漫画なんかに集中できるわけない!とまっさきにあきらめていた)。他にも、さまざまなポーズをとったり(→彼女の場合、横になっているときが一番辛そうだった)、バランスボールで跳ねてみたり(→これはいい!といっていたものの途中から効かなくなった)、風呂に延々とつかったり(→これもだいぶいいらしいが、のぼせてふらふらしてしまうので要注意)、関係ない会話をしたり(→これは意外と効いた。陣痛が始まりそうなときに、「帰国したらどこに住もうか?」とか「のりピーってどうなるかな?」とか「鳩山政権ってもうもたない?」とか「Perfumeの真の魅力ってなんだと思う?」とか「ドミニカ共和国ってどこ?」などの質問を投げかける。すると彼女が「公園の近くがいい」とか「あれは押尾から気をそらすための陰謀」とか「幸夫人ってムー民だよね」とか「生の声が届かないところ」とか「ドミニカ共和国って何?」など、その答えを考えている一瞬だけ気がまぎれるらしい)、さまざまな策を講じていた。

ぼくは、この三分ごとに起きる彼女の激痛にあわせてただひたすら腰をさするのみ。これまでも出産を経験した友人から「男は腰をさするだけ」という話を聞いていて、「なんて役立たずな気休め行為だ!」と思っていた。たしかに「役立たず」であることに相違ないが、この「腰をさする」行為を「気休め」だと思ったら大間違いだ。別の友人に「命がけで腰をさすれ!」といわれて「まったく意味がわからん」とおもっていたのだが、これ本当に命がけで腰をさすらないとマジでキレられます。一度、この3分間を利用してダッシュで外にタバコを吸いに出たところ、案の定陣痛を一回のがしてしまい、これまで見たことがないような鬼の形相でAに睨まれた(人の髪の毛って本当に逆立つんだ、と思った)。

あとは、ラマーズ法。例の「ヒー、ヒー、フー」というやつだ。実は毎週日曜日に通っていた191丁目の教室はいわゆる「両親学級」で、ここでラマーズ法についても教わった。陣痛の始まりにあわせて深呼吸をして、パートナーが妊婦の目の前で「3、2、1、2、3、2・・」と指を折る。妊婦はその指に集中しながら「ヒー・ヒー・ヒー・フー、ヒー・ヒー・フー、ヒー・フー」と呼吸するというもの(人によって微妙にやり方は違うみたいです)。

両親学級を受けている段階での僕の感想は、「あほくさ!」というものだ。大のオトナが「ヒー・ヒー・フー」じゃないだろ、と。人をバカにするのもたいがいにしろ、と。しかし、陣痛の最終段階で本当に「気休め」になったのは(他の方法はすべて「気休め」にすらならなかった)このラマーズ法だけである。

5時ごろ、2-3分間隔。荷物をまとめてふたたび病院へ。トリアージで診断後、個室へ。しかしこれ予想以上にハードだ。すでに24時間近く寝ていない状態で、定期的な陣痛が始まってから10時間以上経過している。その間、3分から5分間隔で彼女は激痛に襲われているのだ。病院に入るとなかなか自由な姿勢でいるわけにもいかず、意識も朦朧としている。本人と医者と相談して、1時間半だけ硬膜外麻酔を打つ。

9時ごろ、頻繁に産婦人科医がチェックしにくる。あと少し。麻酔が切れてきて、また痛みを感じているようだ。

12時過ぎ、産婦人科医(ちなみにこの女医はふだんの検診時の女医とは別人だが、のちに病室に私服で現れたときライダーズ・ジャケットを羽織っていてまるでテルマ&ルイーズみたいだった)の「オーケー!レッツ・ドゥーイット!」というかけ声とともに、ナースが各ポジションにスタンバイ。「ユー・アー・ドゥーイング・グレイト!」「ファビュラス!」「プッシュ!」「プッシュ!」「オーサム!(awesomeですね、これは)」「エクセレント!」など、アメリカンなかけ声が飛び交うなか、

12時23分、無事出産。3400グラムの女の子です。

俺、日本だったら確実に廊下でうろうろしていたと思うんですけど、あまりこっちではそういう選択肢もないようで、いつのまにかハサミらしきものを握らされて臍の緒を切っていた。

出産後の出血がかなり多く少し心配したものの、なんとか持ち直して病室に移動。

22時、僕と義母はいったん帰宅。


12月6日(日)
8時、病院へ。休む間もなく育児が始まる。

11

11月23日(月)
昼過ぎに大学へ。14時、ハミルトン・ホールのアンドリュー・デルバンコ教授の研究室へ。ちなみに、デルバンコさんはコロンビアでの僕の受け入れ教官である。英文科(コロンビアはEnglish and Comparative Literature=英文学および比較文学科という名称)とアメリカ研究科の両方を担当されていていつも忙しそう。まあ学期中の慌ただしさは僕もわかるので、時間がありそうなときに研究室を訪ねている。ピューリタン研究から始め、最近はNew York Review of Books*1などにもよく寄稿している。今はアメリカの高等教育問題についてよく書いているようだ。でもとりあえず(そしてぼくの受け入れ教官になってもらった理由でもあるのだが)このメルヴィルの伝記が有名。とにかく文章が読ませる。研究室で小一時間ほど雑談。

Melville: His World and Work

Melville: His World and Work

15時、タクシーを拾い、病院へ。17時過ぎにいったん自宅に戻る。18時半、今度はBラインでアッパー・ウェストへ。別の病院で面談。22時ごろ帰宅。


11月24日(火)
自宅で原稿。18時ごろ、病院へ。いろいろまわって21時前に帰宅。さらに原稿。


11月25日(水)
11時半ごろ家を出て、67丁目のバーンズ&ノーブル*2へ。ここはリンカーン・センターやジュリアード音楽院の真向かいということもあって、音楽書が充実している。朝9時から深夜12時までやってるのも便利。ちなみにマンハッタンではいわゆる大型CD店というのをほとんどみかけなくなってしまったが、本屋に関してはBarnes & NobleやBordersなどのチェーン店と小規模の専門書店がまだまだがんばっている印象がある。

店内でマイケル・ギルモア教授と待ち合わせ。僕の博論を審査していただいた副査のひとりである。感謝祭休暇でこちらの方に来るというのでわざわざ立ち寄っていただいた。近くの中東料理の店で昼食。昨年、二週間ほど日本をまわってレクチャー*3された論文をもとにした近著(もう予約できるみたい)や僕の最近の仕事について話す。

The War on Words: Slavery, Race, and Free Speech in American Literature

The War on Words: Slavery, Race, and Free Speech in American Literature

15時ごろ帰宅、原稿を仕上げて送る。倒れるように寝る。

夜、アルモドバルの新作*4を観た帰りのAと渡辺と合流、9アベ沿いのカシュカバル*5で夕食。


11月26日(木)
感謝祭。17時ごろ家を出て近くの店でワインを購入。サンクスギビングは日本でいうとお正月に似ていて、この日(11月最後の木曜日)から週末にかけてみなさん故郷に帰って家族と過ごす。大学によっては寮も全部閉まるので、留学生はわざわざ旅行しなければならなかったりするらしい。コロンビアも今日だけはすべての施設が休館。

タクシーでOさんのお宅へ。七面鳥を焼くというのでご招待いただいた。


僕らが到着したあとも続々と人が集まり、最終的に10人ほど。ニューヨークで活動している音楽関係やダンス関係の方々が中心。

ところで、ニューヨークにきてからずっと頭を悩ましてきたことがある。こちらに長く住んでいる日本人の集まりにいくと、やはりみなさん名前で呼び合うことが多い。それはある意味当然で、旦那さんや奥さんがアメリカ人だったり、外国人の友人や仕事仲間も一緒にいるとファースト・ネームで呼び合う方が自然なのだ。ただこの場合、日本人男性同士はどうしてるのだろうか。ずっと気になっていたのに今日も確認し忘れた。いや、本当にどうでもいいんだけど、たとえば、

「はじめまして、ゆうこ(仮名)です。」
「あ、わたし、あいこ(仮名)といいます。」
「どうも、りょうこ(仮名)です。」
「こちらこそはじめまして、けいこ(仮名)です」
「いろいろうかがってますー。わたし、まちこ(仮名)っていいます」
「ずっとあいたかったんですよー。かずみ(仮名)です!」

などという挨拶が行き交うなか、不惑間近のおっさん(俺)が唐突に

「はじめまして、としゆき(実名)です。」

っておかしくないか? なんかかわいらしい感じになってないだろうか。ひとりだけ小学生が混じってしまった感がありありと漂うのだが、気のせいだろうか。それとも単に俺の名前が小学生っぽいということか。みんなが一斉に眉をひそめて「としゆきって(笑)。ぷぷっ」とかいうふうにならないだろうか。いや、「ぷぷっ」ですめば良い。

「え?ごめん、いまの何?もしかしてファースト・ネーム?」
「なんでいきなり名前とかいってるの?」
「なにこいつ、頼むからもうすこし空気読めよ」
「お前の名前なんて誰もきいてないっつーの」
「ちょっとこの人おかしくない?」
「次から呼ぶのやめようぜ」
「つーかマジうざい」
「キモッ!」
「死ねばいいのに!」

とかそういうふうにならないだろうか。 だいたい自分の名前でありながらこの「としゆき」という響きに全然慣れなくて、それはどうしてかというと大学を卒業するまでずっと「バク」と呼ばれてきたからだ。もちろん、名字が「大和田」なので仕方がない。仕方がないといっても、たぶん今の若い人はわからないか。むかし大和田獏ってものすごいメジャーだったんです。お茶の間的に。うそじゃない。だから誓ってもいいが、あのころ日本全国の「大和田」はほぼ全員「バク」というあだ名を付けられたはずだ。だいたいうちの弟も学校で「バク」って呼ばれてたからな。だから友達が電話をかけてきて、うちの母親に向かってうっかり「バクくんお願いします」といったときも(そう、かつて携帯電話がない時代にはこういうことが多々あったのです)、母親も「どっちのバクですか?」と慣れたもんだった。

そんなことはどうでもいい。問題は自己紹介である。でも、いくら慣れているからといって、

「はじめまして、ひろこ(仮名)です」
「あ、こんにちは、まゆみ(仮名)です」

っていう流れで

「はじめまして、ばくです。あだ名です。苦笑い。」

っていうわけにもいかないしなあ。悩ましい。


11月27日(金)

大学図書館

夕方、渡辺と待ち合わせて三人でリンカーン・センター近くのレストランで夕食*6。こういう機会もしばらくとれないかもしれない。


11月28日(土)

午前中にミッドタウンの大型店に向かい、大量の買い物。これでようやくもろもろ準備が整ったといえるのか。

午後、大学関係の書類。思ったより時間がかかる。

夜、Junot DiazのThe Brief Wondrous Life of Oscar Waoを読む(読み直す)。


11月29日(日)

昼過ぎにダウンタウンの美容室へ。夕方帰宅。ネタ探し。

Junot DiazのThe Brief Wondrous Life of Oscar Waoを読む。

ユリイカ/タランティーノ

まだ見ていませんが、『ユリイカ』のタランティーノ特集号が発売されたようです。「パシフィック・リム・ミュージック──タランティーノの音楽とチーズの美学」で、おもにタランティーノ作品のサウンドトラックについて書きました。

10

11月16日(月)
義理の伯父が亡くなったとの報。父親と連絡を取りながらもろもろ進める。

14時、病院。夕方に帰宅し、Alison BechdelのFun Homeを徹夜で読む。


11月17日(火)
朝方少しだけ寝て、12時過ぎに大学。14時、セミナー。今週の課題図書はアリソン・ベクデル*1Fun Home: A Family Tragicomic。2006年全米批評家協会賞候補作。Bechdelは1983年以来、レズビアンの日常を描いたDykes to Watch Out Forというコミック・ストリップを発表してきた作家。本作もレズビアンとしてカムアウトした著者がゲイの父親との関係をふりかえる回想録。とても面白かった。

Fun Home: A Family Tragicomic

Fun Home: A Family Tragicomic

The Essential Dykes to Watch Out For

The Essential Dykes to Watch Out For

ペンシルバニア州の片田舎で葬儀社を営む家族。教師をしながら自らの耽美的な世界にひきこもる父親と、レズビアンとしてのアイデンティティを獲得する語り手。作品は自殺とも思える事故死をとげた父親との関係を振り返りながら進む。その父親は、家族には隠していたものの実は同性愛者だったのだ・・・という内容。演習では作品のこうした反復的な構成や具体的なコマ割りの分析に始まり(みなさん、映画用語を駆使して議論していた)、おびただしい文学的引用などについても話し合う。グラフィック・ノベルに関する研究はアメリカでも少しずつ進んでいるようだ。

ちなみに、作者は「ベクデル・テスト」というものを提案していて、下記の条件を満たした映画のみを鑑賞するという。

  • 女性の登場人物が少なくとも二人以上いて、
  • 彼女たちが会話を交わし、
  • しかも、男以外のことが話題にのぼる。

セミナー終了後、レイチェルの研究室によって雑談。17時半ごろ、1ラインに乗って23丁目まで。Aの英語の先生であるジャネットと三人でお茶。ジャネットさんは人類学の博士号をお持ちで、若いころは三年かけてトルコから日本まで横断した「ヒッピー」だったらしい。映画や小説にとにかく詳しくて、いろいろ教えていただく。

夜、『文學界』とMarilynne RobinsonのGileadを読む。


11月18日(水)
終日大学図書館。夜、『新潮』とMarilynne RobinsonのGileadを読む。


11月19日(木)
13時、大学の近くでこちらで知り合った吉村さんと会う。数時間いろいろ話したあと、地下鉄でダウンタウンへ。16時半ごろ、カフェ・レッジオ*2で中地さん、松本さんとお茶。

夜、『新潮』とMarilynne RobinsonのGileadを読む。


11月20日(金)
どうもここ数日体調が悪いと思っていたのだが、これ花粉症ではないか。もともと日本でも誰にも共感されない時期に花粉症らしき症状に苦しんでいたのだが、とにかく喉が痛くて鼻がつまり視界がぼやける。薬局で薬を買って飲んでみたところ、たしかに症状は治まった。でも頭がぼんやりしたままで仕事にならない。


11月21日(土)
終日大学図書館

夜、『すばる』とMarilynne RobinsonのGileadを読む。


11月22日(日)
ぼくがひたすらひとり遊びをしているあいだに、Aは着々とニューヨークで人間関係を広げつつある。きょうはAに誘われて渡辺(だいたい渡辺ってぼくの中学の同級生なんだけどな。なんでAの方がいろいろ知っているのか)の友人宅へ。

Aラインでダウンタウンに向かうものの、42丁目で地下鉄が止まる。ほんとに週末の交通機関はダメだ。結局、タクシーを拾ってお宅まで。こちらで長いこと仕事をしている人たちで、アメリカ人の旦那さんも数人いた。いなり寿司をご馳走になる。

早めに失礼して、14時ごろ14丁目の駅から一気に191丁目まで。第四回(最終回)。文化や制度の違いが考え方にも影響を及ぼすことをつくづく実感する。それにしても準備が進まない。このあたりについては、またあらためて。17時半に終了。外に出るともう真っ暗である。いったん家に帰ってから9アベ沿いのインド料理屋*3で夕食。

夜、『群像』を読む。

9

11月9日(月)
16時、ホテルで真理さんと9月からNYUの客員研究員としてこちらに滞在中の中地さんと待ち合わせ。ダコタ・ハウスをご案内したあと、しばらくセントラル・パークを散歩する。紅葉が美しい。誰もがいうことだけど、いつも殺気立っているマンハッタンにあって、このセントラル・パークだけは別の時間が流れているような気がする。しばらく歩いたあと、65丁目のカフェでお茶。

18時半、西78丁目の寿司屋Sushi of Gari*1。Aも合流して四人で夕食。真理さんはアメリカの「ヘンな巻き寿司」に凝っていて(巻き寿司を天ぷらで揚げて、しかもクランベリー・ソースをかけるのがあるらしい。それはぜひ食べてみたい)、今回も「創作寿司」という看板に惹かれて予約した。たしかに「創作寿司」であることに間違いはないのだが(トロに大根おろしがのっていたり)、普通においしかった。いや、普通どころではなく異常にうまかった(そこそこ値段も張るが、ネタは日本から空輸しているようなので仕方がないだろう)。中地さんとは初対面とは思えない話をいろいろしてしまったのだが大丈夫だろうか。


11月10日(火)
一日中原稿執筆。


11月11日(水)
なんとか原稿を仕上げて送る。


11月12日(木)
今朝早く、母方の祖母が亡くなったと連絡を受ける。享年95。今は事情があって日本に帰れない。何もする気が起きずに家にいる。

午後、ずっと後回しにしていたいくつかの事務作業をこなす。あちこちに電話をかけ、郵便局で荷物を受け取り、届いたままの状態でほったらかしていた家具を組み立てる。

祖母とは、二度ほど一緒に暮らしたことがある。最初は小学校6年のとき。家族より先に帰国した際に半年ほど祖父母の家から学校に通ったのだ。しばらく日本を離れていたせいでぼくの日本語はおかしくなり、同学年の友人との会話も難しくなっていた。祖母は特に驚くこともなく、「あんたはたまにヘンなことをいいよるなあ」とケラケラ笑いながら、祖父が隠れてタバコを吸っていることを毎日のように愚痴っていた。

二度目は博士課程に進むために実家に戻ったとき。数年間にわたり、母と祖母と三人の生活が続いた。それは、ちょうど祖母の認知症が進行したときだった。母は祖母の介護に追われ、ぼくは博士課程に進学したものの先が見えず、そして祖母は自分が少しずつ惚けつつあることに混乱し、戸惑い、あきらめているようだった。その後、母が体調を崩し、いろいろあって祖母は名古屋の叔父が引き取ることになった。あのころ、ぼくは祖母に優しく接することができただろうか。

文芸誌が届く。今月はいつもより多めで13編。


11月13日(金)
ゲラ返し。

18時ごろ、大学図書館を出て1ラインでハウストン・ストリートまで下る。ブリーカー通りのライブハウスへ。この界隈はボブ・ディランがニューヨーク・デビューを飾ったカフェ・ワ*2やビターエンド*3などフォーク、ロック・シーンの有名なハコが集まっているところ。そのまま東に歩くと突き当たりにかつてのCBGBがある。


会場でチケットを買って確認したところ、メイン・アクトの出演はだいぶ遅くなるとのこと。仕方がないのでいちど家に戻る。20時すぎに今度はAラインで西4丁目まで下り、ふたたび会場へ。Alela Diane, Marissa Nadler, Orba Squara@Le Poisson Rouge*4

アリーラ・ダイアン*5はデヴェンドラ・バンハート*6なんかとくくられることもあるサイケ・フォーク、オルタナ・フォーク界隈の人。最近ラフ・トレードと契約したらしい。


曲を聴いてもらうとわかる通り、少し声質がさかなのポコペンさんに似ている(ポコペンさんの方が空気をえぐる感じが強いと思うけど)。このあたりの人をグリール・マーカスのOld Weird AmericaをもじってNew Weird Americaといったりすることもある。ニューヨークにはフォーク・ミュージックの確固とした伝統があるが、その直接的な政治性よりも音楽そのもののグロテスク──アメリカの自然にうごめく狂気をいかに感知するか──にフォーカスをあてた彼らの活動は、たとえば「フォーク(民謡)の読み直し」をもくろむオルタナ・カントリーの連中とも通じている。

To Be Still (Dig)

To Be Still (Dig)

22時過ぎに会場をあとにし、ホール・フーズ*7で買い物をして帰宅。


11月14日(土)
一日中雨。「雨が降った日は学校に行かない」という16のときから忠実に守っている自分内ルールにしたがって、きょうは家にいることにする。

午後、日本で焼かれている祖母のことを思う。

夜、『文學界』を読む。


11月15日(日)
午前中に洗濯をし、午後いつものように地下鉄に乗って191丁目へ。第三回。うーん。18時ごろ、帰りは大学前で下車し、図書館に数時間こもる。

夜、『文學界』を読む。