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1月18日(月)
祝日。

Richard Hofstadter Anti-Intellectualism in American Life. ホフスタッターはアメリカの反知性主義の系譜を三つ挙げている。Evangelicalism, primitivism, そしてbusiness societyである。business societyについては、たとえば「ビジネスは積極的で野心的な人々にアピールしただけでなく、それ以外の社会の価値基準を決定づけた。それによって、専門職──法曹、医学、教育、そして聖職界ですら──の人々はビジネスマンを模倣し、自らの専門的業界の基準をビジネスのそれに合わせてしまったのだ」と書いていて、だいたいこれどこの話よ?(原文は19世紀アメリカ社会について述べたもの)という感はある。

でもこの反知性主義、自戒も込めていえば結構根は深いと思う。とくに音楽界隈ではいまだに「だからグダグダいってないで音を聴けばいいんだよ!」とか「そうやって批評なんてなくても、結局この曲を聴いてみんながどう感じるかじゃない?」みたいな素朴な実感主義(ホフスタッターによればこれはprimitivism)が、文学や演劇の業界に比べると幅を利かせているように思う。いや、もちろんこの反知性主義に対して、では何を持って〈知的〉とするか、という原理的な問いはぜんぶすっ飛ばした上での話ですけど。


1月19日(火)
午後まで大学図書館。夕方、Aの語学学校の友人が二人来訪。

夜、突然Aが39度2分の発熱。いろいろ調べた結果、乳腺炎の疑いが濃厚。ナンシーさんに連絡する。もう少し様子を見るようにとのこと。


1月20日(水)
二人のうち一人が倒れると家庭内が機能不全に陥る。熱はだいたい8度5分前後。もちろんAはふらふらしているし母乳は出ないし赤ん坊は泣き叫ぶし完全なるカオス。


1月21日(木)
朝方、Aの熱が7度前後まで下がる。

12時ごろ家を出て、大学へ。フィロソフィー・ホールのRoss Posnock教授の研究室へ。小一時間ほどいろいろ話す。かなり難しい人だときいていたが、人の目を見て話さないだけでむしろ非常に知的な印象を受けた。小津安二郎原節子の大ファンだというので驚く。原節子が住んでいる街で育ちましたと伝えると、子どものように身を乗り出して「本人を見たことがあるのか!」と追求された。

14時、いったん研究室を出てドッジ・ホールにある音楽学科の図書室で調べもの。16時、ふたたびフィロソフィー・ホールに戻り、大学院の演習に参加。今期はポズノック教授のセミナーに参加させてもらう。お題はAmerican Intellectuals。

初回だったからかもしれないが、レイチェルのセミナーとはまったく違うやり方で面白い。まず、出席を取るときに学生ひとりひとりを「ミスター」「ミス」の敬称で呼ぶのにびっくりした。どうでもいいことだが、アメリカの大学院ではどのタイミングで教官をファースト・ネームで呼ぶかは研究室によって異なる。僕がここ数年夏に訪れているウィリアム&メアリー大学(ハーバードに次いでアメリカで二番目に古い大学)では、修士課程に入った時点で「同じ研究者」とみなされ、院生も教授も互いにファースト・ネームで呼び合っていた。以前にティム(マイケル・ギルモア教授)にこのことをきいたところ、「ファースト・ネームで呼ばせている教授もいるが、わたしは学位をとるまでは許可していない」とのこと。つまり、博士号をとった時点で「研究者として同等」とみなされるわけだ。こちらでも何人か院生に訊いたところ、コロンビアでは院生が教授をファースト・ネームで呼ぶ習慣はまったくないという。それにしても教授が院生を「ミスター・〜」と呼ぶのは予想外。これが東海岸アイヴィー・リーグのエリーティズムなのか。ちなみにレイチェルは学部も大学院もずっと西海岸なので、東と西の違いもあるのかもしれない。
 しかも、セミナーは二時間近くひたすら教授がレクチャーするのを院生がメモを取りながら聴く、というスタイル(ちなみにこれは講義ではなく演習の枠)。途中、教授が投げかける質問に院生が答えを挟むものの、基本的に院生はみな緊張しながら教授の話を聞いていて、レイチェルのセミナーでみられるような活発なディスカッションの空気は一切ない。ポズノック教授のレクチャーも見事で、数々の引用を織り交ぜながら即興的な笑いも挟みつつまったくもってよどみない。もちろん、これこそが古典的な人文学の演習スタイルなのかもしれないが、さきほど研究室でお会いしたときの内向的な印象はふっとんだ。実はティムもそうだが、二人で話しているときはどちらかというと寡黙で物静かな印象を受けるのが、壇上に立ったとたんにある種の風格と威厳を持って朗々と話しはじめるのはなんだろう。単純に訓練の賜物ということでいいのか。そういえば夏にお会いした中地さんはニューヨークに来る前に半年間イギリスで客員研究員をしていたそうだが、ケンブリッジ大の大学院の講義は毎回教授がただひたすら「原稿を読みあげる」だけだったそうだ。
 なんだか日本にいると、やれ授業はもっとディスカッションをとりいれるべし!(なぜなら欧米ではそうだから!)とか、一方通行の講義は時代錯誤!(なぜなら大学はいつも古くさいから!)とかもっともらしいことをいう人の声がどうしても耳に入るのだが、なんというか、みなさんご自分の得意なやり方でそれぞれ演習や授業を運営すればいいんじゃないですかね、というごくごく穏やかな結論ではダメでしょうか。


1月22日(金)
短い原稿をさくっと書いて送る。

Aの乳腺炎が落ち着いたと思ったら、今度は赤ん坊が便秘に。


1月23日(土)
リンカーン・センターのNYPL図書館へ。執筆に必要な本はここにもそろっていると思っていたが、ふつうの研究書(レア本ではない)を閲覧するにもいちいち荷物を預けなくてはならず、煙草を吸うために頻繁に出入りする身としてはあまり使い勝手は良くないかも。


1月24日(日)
昼ごろ、三人でセントラル・パークを散歩。

Emersonの"Self-Reliance"を再読。

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1月11日(月)
ルーファス・ウェインライトがアッパー・イーストのホテルに出演するというので早速チケットをとる。とはいえ、二人で家を空けるわけにはいかない。断腸の思いでAに譲る。もともと「トゥルー・カラーズ・キャバレー」*1というLGBT運動の一環として開催されるイベントで、客も9割が同性愛者のカップルだったそうだ。「ルーファスも良かったけど、来ている男の子がみんなかわいくてかっこいいの!!」とAは興奮して帰宅。


1月12日(火)
13時、タイムズ・スクエア近くの不動産屋へ。実はまだ迷っているのだが、3月に引っ越しをしようかと考えている。いずれにして今の部屋は1年契約なのでそろそろ決めなければならない。まあでも気に入った場所がなければこの家に住み続けるはず。


1月13日(水)
昼ごろ家を出てバスでレキシントン・アヴェニューまで。パーク・アヴェニューを下って領事館へ。出生届の用紙をもらう。子どもが生まれてから三ヶ月以内に提出しないと自動的に日本国籍は放棄したと看做され、アメリカ人になってしまう。こんな大滝秀治みたいな顔をしてアメリカ人というのも不憫なので忘れずに手続きをしようと思う。

午後、赤ん坊を連れて散歩に出る。


1月14日(木)
ふたたび領事館へ。出生届を提出。娘が帰国する際には日本のパスポートが必要とのこと(当たり前か)。

タクシーで西62丁目のリンカーン・センターへ。敷地内にはニューヨーク公共図書館の分館 New York Public Library for the Performing Arts*2があり、以前に鈴木晶さんに教えていただいていたのだが、今回初めて中に入った。大学の図書館よりも近いし(ここはうちから徒歩10分)、子どものことを考えるとわずかな空き時間に作業するには何かと便利だからだ。

受付でカードを作ろうとすると、住所が記載された証明書が必要だといわれる。郵便物でもいいというので、さきほど領事館に提出した娘の出生証明書を出すが「これはお前の娘の証明書であって、お前の証明ではない」といわれる。「そりゃそうだけど、住所の書かれた封筒でよければこれだっていいだろ。実際ここに僕の名前と現住所が書かれてあるんだから」というやりとりに20分。結局ダメでした。泣く泣く自宅まで戻り、たまたま届いていた『ニューヨーカー』定期購読用の郵便物をもってふたたびリンカーン・センターへ。

ちなみに、Aの仕事の関係でうちはいくつかの雑誌を定期購読しているのだが、割引率がすごい。たとえば『タイム・アウト・ニューヨーク』(日本でいう『ぴあ』みたいな雑誌)は年間購読するとなんと90%引きである。90%引きって要するに週刊誌50数冊がわずか20ドル弱ということだ。今回届いた『ニューヨーカー』も年間25ドルでいいという。いったいどうなってるんだ。これが巷でいう雑誌不況や出版不況と関係があるのか、それとももともとこういう制度なのかはわからないが、とにかくうちにどんどん雑誌が溜まっていくのはどうしたものか。


1月15日(金)
疲れが溜まっている。いま6時間まとめて寝るためならいくらでも金を積む。


1月16日(土)
先週からRichard Hofstadter, Anti-Intellectualism in American Lifeを読み進めている。かなり面白い。少々図式的すぎる点は否めないが、とくにピューリタン社会のリヴァイヴァリズムにそれぞれの宗派(長老派、会衆派、メソジスト、バプティストなど)がどのようにかかわったかについては非常にわかりやすくまとめられている。

ところでぼくは湘南地方出身──とあえていうが、地元の人は逗子にしろ鎌倉にしろ藤沢にしろ茅ヶ崎にしろそれぞれ独自のアイデンティティを持っていて自分たちのことを「湘南出身」とは決していわない。「湘南」は、だからいってみれば湘南以外の人たちが作り上げたイマジナリーな概念である──というだけでとある学会の同世代の連中に「ヤンキー」扱いされることがあるのだが(もしそれだけでヤンキー認定されるのなら細川周平さんもヤンキーになるがそれでもいいのか)、むかしmixiの日記に半分冗談で書いたのは、日本のオタク文化がこれだけ世界に認知されたのにヤンキー文化が広まらないのは、オタクが常に再帰的であるのに対してヤンキーは反知性主義的だからだ、と。てめえ本なんか読んでんじゃねーぞコラァ、を基本的なエートスとする文化が世界に流通する可能性は限りなく低い。

ホフスタッターはアメリカの知的活動の大きな特徴の一つは反知性主義的な反発を常に受ける点にあると喝破するわけだが、だとするとヤンキーとは文字通りそうしたメリケン思想の反知性主義を内面化した連中ということであり、しかもこのトライブが可視化されたのが1970年代から80年代にかけてだとすれば、オタクと同様にヤンキーの出現も(グローバリゼーションの結果としての)ポストモダニズムのひとつの現象としてとらえるべきだ、というのはすでにいろいろなところでいわれてるのでしょうね。

それはいいとして、僕が今、日本のヒップホップに注目しているのは、こうしたヤンキー的反知性主義がヒップホップという世界標準のフォーマットを用いることで、どのような表現を浮上させることができるかに関心があるからです。その意味では、ぼくは日本のヒップホップ黎明期の人たちの作品にはそれほど興味はない。


1月17日(日)
映画ライターのHさん来訪。生まれ育った境遇が少し似ていたり、共通の知人もでてきたりして驚く。

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1月4日(月)
赤ん坊は深夜から朝6時ごろまで寝付かず。夜泣きがひどい。


1月5日(火)
今日で赤ん坊が生まれてちょうど一ヶ月。これほどカオスな一ヶ月は経験したことがない。これは何かの修行なのか。だとしたら何の修行なのだろう。ではその修行の成果としてこの一ヶ月で何か進歩しただろうかと考えてみるが、何も浮かばない。強いていうなら、最初の二週間に比べて赤ん坊が泣いてもあまり動揺しなくなったことか。同僚や友人がいろいろ気をまわしてご自身の経験談を送ってくれるのだが、なかでも「子供が生まれてからの半年間は、授業その他の内容の記憶がまったくない」というのが一番凄まじかった。


1月6日(水)
14時半ごろ家を出てタクシーでアッパー・ウェストへ。小児科で一ヶ月検診。ここは産科医に紹介してもらったのだが、初老の男性小児科医を中心に若い女医が3人いる。事前に主治医は決めるものの、基本的に患者の情報は4人の医者が共有しており、定期的に別の医者にも看てもらうというシステム。こうしたやり方はニューヨークではめずらしいそうだ。

三人の女医がみな若くてきれいなのと(というか、それぞれブロンド、ブルネット、赤毛とキャラが立っていて、ファッションも三人三様。出産前に参加した説明会で一人の女医が醸し出していた「私たち三人はプライベートでも大親友なの!」オーラがすごかった)、責任者であるはずの男性小児科医がいっこうに姿を現さないことから、ぼくらは彼女たちを「チャーリーズ・エンジェルズ」と呼ぶことにした。

ちなみに、小児科の待合室と喫煙所はとても良く似ている。ぼくが見知らぬ人にためらいなく話しかけられる場所は、世界中でこの二カ所だけだと思う。


1月7日(木)
そろそろ一人ずつでも外出しないとね、ということで21時前に家を出て徒歩5分の場所にあるライブハウス、ターミナル5へ。Levon Helm Band@Terminal 5*1

リヴォン・ヘルムはいわずと知れたザ・バンドのドラマーである。もっとも「アメリカ的なバンド」といわれながら、ザ・バンドのメンバーがリヴォン・ヘルム以外は全員カナダ人であったことはよく知られている。ザ・バンドは映画化もされた『ラスト・ワルツ』でいったん解散したものの、80年代にはロビー・ロバートソン抜きで再結成。しかし、ツアーの最中にリチャード・マニュエルが自殺してしまう。90年代に入っても散発的にアルバムを発表していたが、リヴォンは下記の本でロビー・ロバートソンとの確執を赤裸々に告白する。

This Wheel's on Fire: Levon Helm and the Story of the Band

This Wheel's on Fire: Levon Helm and the Story of the Band

現在リヴォンはウッドストックに居を構えて毎週のようにミッドナイト・ランブル*2という名のライブを開いているらしい。

今回はリヴォン・ヘルム・バンドというだけあって、主役はあくまでもリヴォン。ステージ上手にドラムが横向きにセットされ、リヴォンの一挙手一投足がよくみえる。90年代末に咽頭ガンを患って以来ほとんど歌えない状態が続いていたが、最近は少しずつ声も復活し、アルバムもグラミー賞候補になった。若手のメンバーがリヴォンをもり立てるステージはどことなくブライアン・ウィルソンのライブを彷彿とさせる。

Electric Dirt

Electric Dirt

意外だったのは客層である。会場には人が溢れるほど押し掛けていて、しかもその半分以上が20代と思われる若い観客であった。もう、ニューヨークで誰が人気があって誰がないのかよくわからん。だってリヴォン・ヘルムだぞ。69歳だぞ。やはり「アメリカーナ」にくくられると若いリスナーにも届くのか。ちなみに昨年スティーリー・ダンのライブにもいったのだが、そのときの観客は圧倒的に50代から60代が中心だった。そしてスティーリー・ダンといえば、もっとも驚いたのは今回スペシャル・ゲストとしてドナルド・フェイゲンが登場したことだ。


"The Weight"や"I Shall Be Released"などを熱唱するドナルド・フェイゲンは、これまでみたことがないほど楽しそうにみえた。逆にスティーリー・ダンの曲では「ブラック・フライデー」を演奏していたが、こちらはなんとなく微妙。たしかにドナルド・フェイゲンが客演といってもリヴォン・ヘルム・バンドで「ガウチョ」や「エイジャ」をやるわけにはいかないか。

アーカンソーの田舎で生まれ、幼少のころからカントリーやロックンロールを聴いて育ち、高校を卒業すると同時に音楽活動を開始したリヴォン・ヘルムと、ニュージャージーの郊外で育ち、10代のころからマンハッタンのジャズクラブに入り浸り、アメリカでもっともリベラルな大学の一つといわれるバード・カレッジで英文学を専攻したドナルド・フェイゲン。典型的なレッドネックと狭義のヤンキー。


この二人にいったいどんな共通点があるのかと思う向きもあるかもしれないが、実はドナルド・フェイゲンの今の奥さんがリヴォン・ヘルムの元嫁なんですね。今回のゲスト出演とそれが関係あるとは思えないけど。

その渦中の女性リビー・タイタスは知る人ぞ知るシンガー・ソングライターで、1970年代に何枚かアルバムを残している。

それにしてもリヴォン・ヘルムとドナルド・フェイゲンの二人と結婚するというのは女性としてどういう心境なんでしょうか。「リビー・タイタスってストライク・ゾーン広いよね」とかそういうまとめでいいのか。これ、日本のミュージシャンでいうと誰になるかいろいろ考えたんだけどうまい例えが浮かばない。北島三郎から坂本龍一に乗り換えるとかそんな感じか。でもこう書くと意外に二人は近い気もするな。誰か適切な比喩を思いついたら連絡をください。


1月8日(金)
ある雑誌*3をパラパラめくっていると、赤ん坊のおしめを替える回数は年間3500回とあってのけぞる。


1月9日(土)
必要があってRichard HofstadterのAnti-Intellectualism in American Life (1962) とRoss PosnockのColor & Cultureを読み始める。前者についてはシンポジウムがもとになった下記の編著を以前にいただき、今すごく読みたいのにこちらに持ってきていない。残念。

反知性の帝国

反知性の帝国

Anti-Intellectualism in American Life

Anti-Intellectualism in American Life

Color and Culture: Black Writers and the Making of the Modern Intellectual

Color and Culture: Black Writers and the Making of the Modern Intellectual

1月10日(日)
短い原稿を書いて送る。おしめばかり替えている場合ではないのでそろそろ仕事の環境を整える。日本で参加しているプロジェクトの参考文献を作成、リストを担当者に送る。

2010年

今年は喪中(でした、そういえば)なので、新年のご挨拶を控えさせていただきます。

年末年始といってもとくに何をしたわけではなく、ただただ赤ん坊を中心にした生活──そもそも「生活」といえるのかどうか、ほとんどスラップスティックを地でいくような日々──が続いた。

しかしよく泣くな。いろいろ励ましのコメント(や経験談)をいただいていて、そのなかでも秀逸だったのが「だっこして泣き止んだかとベッドに置こうとすると、その動作がはじまる前の微細な筋肉緊張を察知して覚醒→ギャン泣き」というエピソードで、うちも割とこれに近いものがあるかも。スリング(抱っこひものようなもの)を使いはじめてからは──というかこれに慣れるのがまた一苦労だったのだが──以前に比べるとひたすら泣き続けたりはしなくなったものの、スリングのなかで寝たと思ってそっと下に置いた瞬間に「お前の姑息なやり方などすべてお見通しだ」といわんばかりにパチッと目を見開いて睨まれるので、なにか自分がものすごく悪いことをしているかのような気持ちになる。しかも、ってことはなんだ、結局オレは24時間ずっとこの生き物をかかえてなきゃいけないのか、と思うと途方に暮れる。

そんななか、31日はちょうどニューヨークに遊びにきていたHさんご夫妻がうちにきてくれた。HさんKさんにはご迷惑だったかもしれないが、僕らにとってはこの上ない気分転換になりました。

そういうわけで新年早々結局こどもネタになりましたが、先日、鈴木晶さん──アカデミシャンとしても娘の父親としてもブログの書き手としても鎌倉市民としてもベース弾きとしても大先輩である──から「子育て日記」は続けた方が良いですよ、とアドバイスをいただき、たしかによくよく考えてみるとしばらくは「子育て日記」以外に書くことはないような気がしたので、あっさり方針を転換して今年も気の向くままに続けていきたいと思います。

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見にくいので別エントリーにしました。

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"New York is falling apart."──9月のある日、東京とニューヨークを行き来しながら生活するローランド・ケルツ氏とソーホーのカフェで昼食をともにしたとき、ふと彼はこうつぶやいた。こちらに来てからもっとも印象に残っている言葉のひとつだ。

たしかに、ニューヨークではさまざまなものが崩れ去っている。東京から来てまずはじめに感じるのは、この街の汚さだろう。


だがそれには理由がある。あちこちにガタが来ている地下鉄は20世紀初頭に開通したものだし、ブラウンストーンと呼ばれる古いアパートの多くは19世紀後半に建てられたものである。ニューヨークを象徴する、あのエンパイア・ステート・ビルディングですら1931年に竣工したものだ。この街のインフラは基本的に戦前につくられたものなのだ。繁栄と成功の象徴であった数々のランドマークは時を経るごとに色褪せ、灰色に染まっている。

また、崩壊はハードに限った話ではない。


この街で生まれたさまざまな音楽──ティンパン・アレー、ミュージカル、モダン・ジャズ、それに60年代から70年にかけて盛り上がった実験音楽やパンクロック、さらにはヒップホップですら──は、かつての勢いを失っているように見える。

そう、端的にいってニューヨークは今、適度に退屈な街になっている。そして、ぼくはこの「退屈さ」がかなり気に入っているのだ。だいたい20世紀の末に文学を志すような人間に、〈新しさ〉という価値感がさほど意味を持たないのははいうまでもないだろう。

そもそも、ぼくはあの新しい文化やメディアが産まれようとするときの、若者がむやみに興奮し、どこかみな浮き足立ってくる感じが苦手だ。そこでは、まるでそのメディアに携わっていること自体が特権的であるかのような傲慢が横行し、そこに参加していない人々を不必要に蔑む発言が幅を利かせるだろう。


「もう〜なんて古くさくて聴いてられない!」と一見不満を述べているかのような口調には、嬉しくて仕方がないというはしゃぎっぷりが垣間見えるし、「〜界の人たちはこうした新しいメディアに無頓着すぎる!」と怒ってみせる話者は、なによりもその「無頓着」な人びとのおかげで本人の優越感が満たされていることに無自覚だ(と、最近Twitterをやりはじめてつくづく思った)。

朽ち果て、腐臭を放ちつつあるニューヨーク。それはとりもなおさず、多くの論者が勝ち誇ったかのように宣言した「アメリカの世紀の終焉」を象徴しているに違いない。9.11、そして金融危機と2000年代に起きた二つの出来事によってそれは決定づけられたようにみえる。


そして、浮き足立った人々は早々にアメリカに見切りを付け、これから2016年に向けて「南米!南米!」と騒ぎ立てるだろう(あの、オリンピック候補地を選定する際に、東京とシカゴが「落選」したときの皆の喜びようといったら!突然まわりが全員ブラジル人になったのかと思った。)

あの軽薄で、表層的で、それゆえに圧倒的にきらびやかなアメリカの消費文化が腐りはじめている。だが「アメリカの世紀の終焉」などという抽象的な見出しとは無関係に、今も言葉を紡ぎ、音を組み立てる人たちがここニューヨークにもいる。彼らは、もはや自分たちの音楽や小説が世界のシーンをリードしているなどとは思っていない。だがそうした気負いから自由であるが故に、開放的で繊細な作品が数多く生まれているともいえるのだ。滅びゆく文化を彩るのは諦観や諧謔、そしてある種のイロニーや節度である。こちらにきてから9ヶ月間、さまざまな人と話し、街を歩き、ネットを波乗りするなかで僕はこの点について確信した。今、とくに音楽や文学についていえば、ニューヨークはかなり面白い。


その一端はすでに上にあげたリストを通してみえるはずだ。来年は、こうした動きについても少しずつ書いていきたいと思う。ゆるやかに発酵するアメリカの音楽と文学にどこまでも寄り添っていこう──2010年を前に、僕はあらためてこう決意した。

2009年ベストテン

今年は本当にCDを買わなかった。100枚いってないかもしれない。これほど買わなかったのは20年ぶり。理由はいくつかあるが、まずニューヨークに大型CD店がほとんど見当たらないということ。バーンズ&ノーブルやボーダーズなどの書店チェーンの一角に小さなCD売り場があるくらいだ。あとは、アマゾンの配達が遅いこと。日本だと翌日には届くものが、やはり国土が広いせいか三、四日はかかってしまう。そのくらい待てばいいじゃないかといわれればそれまでだが、四日も経つと興味を失ってしまうのだ。

必然的に、iTunesからダウンロードしたり、シングルのPVをYouTubeでみたりする機会が飛躍的に増えた(だいたいこれで十分だったりする。というか、学生はもうずっとこういう聴き方をしているんだろうな)。まるで『小林克也ベストヒットUSA』でヒットチャートを追いながら、気に入った曲のレコードを買っていた(借りていた)中学時代に逆戻りした気分だ。そして、個人的にも「アルバム」という単位で音楽を聴く習慣が急速に廃れた年だったように思う。

もしかするとアルバム単位でのベスト10は今年で最後かもしれないという予感を抱きつつ、2009年にもっとも楽しんだのは下記10枚。並びはアルファベット順なので番号は関係ありません。


1) Allen Toussaint / The Bright Mississippi (Nonesuch 2009)

Bright Mississippi

Bright Mississippi

ニューヨークに来てからアラン・トゥーサンは二回見た。一度目は5月のヴィレッジ・ヴァンガード。二度目は8月のリンカーン・センターの野外公演で鈴木晶さんご夫妻とご一緒した。このアルバムはトゥーサンがはじめて本格的に戦前ジャズに取り組んだ作品。ジョー・ヘンリーによるプロデュース。マーク・リボーなどが参加。


2) Clipse / Til The Casket Drops (Columbia 2009)

Til the Casket Drops (Clean)

Til the Casket Drops (Clean)


ヴァージニア州出身の兄弟ラッパー。これまでネプチューンズのトラックにずっと頼ってきたが、今回はカニエやDJカリールなども曲を提供。もともとラップやリリックには定評があったものの、セカンド・シングル"I'm Good"には驚いた。なんだこの圧倒的なメジャー感。素晴らしい!ただひとつ気になるのは「"I'm Good"(オレってイケてるっしょ!)」とノリノリでPVに映っているのが実は兄弟ではなくファレルではないか、という点だ。


3) Dirty Projectors / Bitte Orca (Domino Recordings 2009)

Bitte Orca (Ocrd)

Bitte Orca (Ocrd)


最近はあまりロックの新しいアルバムはチェックしていないが、今年ニューヨークで飛び抜けて注目されたグループだといえるだろう。ビョークデヴィッド・バーンがライブに飛び入りしたことでも話題になり、11月にダウンタウンのバワリー・ボールルームで行われたライブ(4デイズ)も完売。エスニックな音楽の取り込み方がたしかにトーキング・ヘッズを彷彿とさせるが、その独特のソングライティングと強烈な女性ボーカルにはかなり惹かれます。


4) DOOM / Born Like This (Lex Records 2009)

born like this

born like this


覆面ラッパー、DOOM(旧 MF DOOM)は90年代後半から活動していたようだが、一般的に知られるようになったのはマッドリブとのプロジェクト、Madvillainで成功して以降(2004)。マスクをつけてラップするアイディアはアメコミのキャラクターから着想を得たものらしい。サウンドも含めてアルバムのコンセプト全体がコミック/マンガ的な想像力にあふれている。1月にはこちらでモス・デフとも共演する予定。


5) Jay-Z / The Blueprint 3 (Roc Nation / WEA 2009)

Blueprint 3

Blueprint 3


とくに好きなアルバムではないが、なんといってもアリシア・キーズをフィーチャーしたシングル"Empire State of Mind"は本当によく聴いた。聴いた、というのは自分で積極的に再生したのではなく、文字通り街のいたるところで流れていたのだ。ブルックリン出身のジガとヘルズ・キッチンで生まれ育ったアリシア・キーズが街のスナップショットを背景に高らか歌い上げるニューヨーク讃歌(ちなみに、ぼくがヘルズ・キッチンに部屋を借りたと日本の友人/知人に報告した際に、「じゃあアリシア・キーズと同じですね」と真っ先に指摘してくれたのは長谷川町蔵氏である。なんでそんなこと知ってるんだ!)。PVを見てもらえればわかるが、あまりに空っぽで逆にすがすがしい。個人的にはヤング・ジージーをフィーチャーした"Real As It Gets"が好き。


6) Kid Cudi / Man on the Moon: The End of Day (Good / Universal Motown 2009)

Man on the Moon: The End of Day

Man on the Moon: The End of Day


ついにヒップホップはここまで来たか、と思わずにはいられない。とにかくPVを見てほしい(ってこればっかりだな)。どこのアート・ロック・バンドのビデオかと思うほどオシャレで気が利いている(それにしても、コモンかっこいいな)。これがダーティー・プロジェクターズのプロモだといわれてもわからないだろう。カニエにフックアップされたクリーヴランド出身ラッパーのファースト。カニエ/キッド・クディは明らかにゲームのルールを変えようとしている。ただ、この方向での「ルール変更」はジャンルそのものの溶解に繋がるだけではないかという気もする。今年はアッシャー・ロスという白人ラッパーも話題になったが、同じ異端であれば僕はこちらの方が好きでした。


7) Mos Def / The Ecstatic (Downtown Music 2009)

Ecstatic

Ecstatic

ii
最初このアルバムの良さがいまいちわからなかった。でも聞き込むうちにモス・デフのラップに少しずつ引き込まれていった。うん、良いアルバムだと思います。


8) Raekwon / Only Built 4 Cuban Linx... Pt. 2 (Ice H20 Records 2009)

Only Built 4 Cuban Linx 2 (Clean)

Only Built 4 Cuban Linx 2 (Clean)


リアルを突き詰めた末に「漫画/劇画的な世界」が立ち上がるのは、おそらく20世紀末以降の先進国に共通する現象であると先日『文學界』にも書いたが、その意味では本家本元ウータン・クランの登場。このPVもすごい(たぶんYouTubeのサイトに飛ばないと見れない)。1995年に絶賛されたOnly Built 4 Cuban Linxの続編という位置づけ。マフィアの犯罪を題材としたコンセプトに、今回も『男たちの挽歌』のシーンがサンプリングされていたり、お馴染みの世界観が繰り広げられている。


9) Tanya Morgan / Brooklynati (IM Culture 2009)

Brooklynati

Brooklynati


シンシナティ出身のMC二人とブルックリン出身のMC/プロデューサーの三人組。かなりよく聴いた。


10) V. A. / Dark Was The Night (The Red Hot Organization 2009)

Dark Was the Night

Dark Was the Night

まずは参加ミュージシャンの一部を列挙してみよう。デヴィッド・バーンギリアンウェルチ、スフィアン・スティーヴンス、ヨ・ラ・テンゴ、クロノス・カルテット、ダーティー・プロジェクターズ、アントニーアントニー&ザ・ジョンソンズ)、ベイルート、アンドリュー・バード、ケヴィン・ドリュー(ブロークン・ソーシャル・シーン)、ベン・ギバード(デス・キャブ・フォー・キューティー)、グリズリー・ベア、スチュアート・マードックベル&セバスチャン)・・・。もう、これだけで即買い決定なわけだが、それぞれのミュージシャン/グループの曲のクオリティーも非常に高い。1920年代から30年代にかけて録音を残しているブルース/スピリチュアル・シンガー、ブラインド・ウィリー・ジョンソンの代表曲「ダーク・ワズ・ザ・ナイト」にインスパイアされたインディー系のミュージシャンが集まってできたコンピで、ようするに主題は「恐慌下のブルース」ということだと思う。それにしても、クロノス・カルテットによる「ダーク・ワズ・ザ・ナイト」のカバー(!!)も驚いたし、一枚目の最後を飾るスフィアン・スティーヴンスの"You are the Blood"(同じアズマティック・キティ・レーベルのカスタネッツの曲のカバー)は、個人的に2009年のベストトラックかもしれない(いや、正確にいうと10分くらいある曲で、後半の5分はわりとどうでもいいのですが)。

他にも、DJ Quik & Kurupt / Blaqkout (Mad Science 2009)やJ Dilla / Jay Stay Paid (Nature Sounds 2009)、それにMadlib / Beat Konducta Vol. 5-6 (Stones Throw 2008)(←これ、2008年ってCDの帯には書いてあるんだけど、公式サイトには2009年発売になっている。どっちだっけ?)をよく聴いた。あと、どうしても日本の音楽からは離れてしまったのだが(そして今年はさらに日本のヒップホップが盛り上がったようなのだが・・・いまからでもいいので、NくんかMくんは今年のベストをメールで送ってくれ!)、Perfumeと先日出たばかりの口ロロのアルバムは文句なしに素晴らしいと思いました。
BlaqkoutJay Stay PaidBeat Konducta 5-6: A Tribute to Dillaトライアングル(初回限定盤) everyday is a symphony

14

12月14日(月)〜20日(日)
今週は特に書くべきことはない。月曜日に産婦人科でAが産後のチェック。土曜の午後に日本から来たNさんと渡辺と三人で二時間ほどお茶をした以外はただひたすら赤ん坊の世話をしていた。一日のうち自分が起きていて、かつ赤ん坊が寝ているわずかな時間は朦朧としながらパソコンの前に向かい、Twitter上でTLを眺めたりつぶやいたりする程度。

赤ん坊はだいたい二時間おきにギャン泣き、授乳、おしめ替え、睡眠を繰り返している。ただ二時間おき、といってもそれが規則的に続くわけではなく、授乳後にぐずる→なかなか寝付かない→寝かしつけるために試行錯誤→あっという間に二時間経過→おしめ替え→あれ?また授乳の時間?→まだこの娘泣いてるの?→オレたちの睡眠は?→ふりだしに戻る、のくりかえし。世の中には「あまり泣かない赤ん坊」と「ひたすら泣き続ける赤ん坊」がいるみたいだが、どうやらうちは後者。まったく誰に似たのやら。すでに手首が腱鞘炎気味です。

というわけで出産にまつわる雑感を。これでほんとに最後。そもそも「ブログに子供の写真をアップするような人間にだけはなりたくない」と思っていたのにこの体たらくだ。「通常営業に戻る」とまではいかなくても、「少しずつ営業を始める」くらいにはするつもり。

前回のエントリーに対して数人の知人・友人からメールをいただいた。なかでも多かったのは、「自分たちだって粉ミルクまみれで育ったんだからあまり気にする必要はないんじゃない」というものだ。それはまったくその通りで、そのことは実はあまり気にしていない(というより、粉ミルクにしたところで泣く子は泣くので、その点はあまり変わらない)。ただそれとは別に、母乳育児に対抗する修辞として「自分たちだってこうだったから」というのは、「でも15年前は飛行機でみんな煙草吸ってたから」というのと同じくらい説得力をもたなくなっているように思う。別の友人が「知り合いのママさんが完全母乳であることを誇らしげにいうたびに、うちの嫁はキレていた」というように、こうした「自然」信仰が母親のコミュニティー内でいびつなランク付けとして機能しているのではないか。

さらにいうと、この「自然」信仰は「過剰な医療行為」に対する反動として志向されていると思われがちだが、そこに「科学」と「自然」の対立をみるべきではない。いや、もちろんこの「自然」に相当あやしげな思想が入り込んでいるのは確かだけど(水中出産とか。これ僕も聞いたことあります。なんなんすかね>Aさん)、問題はむしろ別の点にある。たとえば授乳に関していえば、Aはかなりひどいアレルギー持ちだが、そうした母親のアレルギーは母乳で育てた方が免疫ができて赤ん坊に出にくい、という医学的な論文が存在する。あるいは前回書いた通り、麻酔を打つことで胎児に影響を及ぼすかもしれない、という科学的な研究がある。だから、ここではむしろ「科学」が「自然」を裏付けるために機能しているというべきだろう。母乳の成分にはこんなにいいものが含まれているという研究結果が日々量産され、それが一般的な育児書を通して広まっている。

ちなみにものの本によれば、アメリカでは20世紀初頭に粉ミルクが広がり、1950年代には母乳で育てる母親はほとんどいなかったようだ(ほんとか!)。今はその揺り戻しがきていて、祖母の世代と母親の世代で育児方針について口論が絶えないとも聞く。

いずれにしても、「科学」に保証された「自然」が〈理想〉として掲げられ、それが母親のコミュニティー内に序列化をもたらしている──これはほんとに厄介だなあ、と思う。まあでも厄介、というのは完全に男目線で、現実はそんなことを考える暇もなくただ赤ん坊に振り回されているだけなんですが。

男目線といえば、この妊娠→陣痛→出産→授乳の過程における男の疎外感ったらない。このプロセスにおいて男はなにひとつ実質的にかかわれない、というのは本当に驚愕すべき非対称性だと思う。だからこそ、男子が思う「適当でいいじゃん」という言葉がしかるべき重みを持って女性に届かない、ということはあるかもしれない。でもなあ、実際には「適当でいい」という選択肢は存在しないような気がする(ようは、泣き続ける赤ん坊をあやすかほっておくかしかなくて、このほっておくのも神経がすり減るんです)。

僕らは日本での出産を経験していないので、アメリカと比較してどうというのは簡単にはいえないが、やっぱり産後48時間で退院というのは過酷だと思った。Aの出血が普通より多かったというのもあるし、それを差し引いても何もわからない状態で追い出されるのは単純に不安です。最初はこの慣例が悪名高い保険制度と絡んでいて、ようは病院に長く滞在することで保険会社の出費がかさむからだと思っていたのだが、冷静に考えてみるとそれだけではないように思う。当たり前だけど、ここにはヨーロッパ系の人々だけでなく、アフリカ系やユダヤ系、それにヒスパニック、アラブ系、アジア系の人々がいて、それぞれの家庭がそれぞれの文化にもとづいて出産、育児を経験している。つまり新生児をどのようにケアするかについて統一的な作法が存在しないのだ。日本では産後一週間かけて新生児の扱い方をひととおり教わるそうだが(というか、たしか弟のときはそうだったような気がする)、その「扱い方」の文化的コンセンサスがない以上、病院としてはさっさと退院してもらうしかないわけだ。そういえば、陣痛が始まって深夜に病院に駆け込んだとき、たまたまAがマタニティ・ヨガの教室で一緒だったインド人の妊婦と一緒になったのだが、あちらは「親戚一同勢揃いかよ!」というくらい大人数(10人以上?)で出産を迎えようとしていた。

それと少しだけ関係することで個人的なことをいえば、今回の経験で初めて「アジア系」というくくりの意味が実感できた。僕が所属している日本アメリカ文学会でも「アジア系アメリカ文学」を研究する方々がいる。でも、日本にいるときはこの枠組みの存在意義がいまいちよくわからなかった。アジア系といっても中国も韓国も日本も全然違うんだし、それを一緒くたにすることにどういう意味があるのか、と正直なところ思っていたのだ。ところが、こちらにきてみて「アジア系」というくくりが実生活において有効に──というか、切実に──機能していることに気がついた。病院でも、たとえば中国系や韓国系のナースは、真っ先に僕らの赤ん坊を見て祝福してくれる。"She's definitely Asian!"といって無条件にシンパシーを表現してくれるのだ。そして、それは先ほどの「過酷さ」の裏返しなのだと思う。真の多文化社会に伴う殺伐とした厳しさ──この「過酷さ」を少しでも緩和する装置として「アジア系」という「想像の共同体」は要請されている。

出産直後、僕らは泣き止まない赤ん坊を前に動揺し、藁をもつかむ思いでナンシーさんのもとを訪れた。そのとき、満面の笑顔で迎えてくれた韓国生まれの元助産婦(御年83歳)は「韓国では産後一か月間は毎食これを食べるのよ」といって大量のわかめが入ったスープを作ってくれた。涙が出るほどおいしかった。